11月20日「互いに受け入れあいなさい」説教要旨
ローマの信徒への手紙    15章 7節

 「キリストもわたしたちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れて、神の栄光をあらわすべきである」。

 心の弱い人、小さい子供に対する時、そこでは相手を受け入れることが必要です。「キリストもわたしたちを受け入れてくださったように」とあるように、それは、イエス・キリストにかかわる信仰の課題なのです。「受け入れる」とは、第一に「聞く」ことです、ボンヘッファーは、『共に生きる生活』という本の中で、「聞くことの奉仕」と言いました。「聞く」ということが、真の奉仕なのです。しかし、「聞く」ということは、ただ「耳を傾ける」のではありません。「相手を理解する」ことです。特に、相手の悩み、苦しみを理解することです。真剣にじっと耳を傾けて、その苦しみに共感することなのです。「共感」とは、相手の心が自分の心になることです。もはや相手の悩みではなく、それは自分の悩みになるのです。
 そこに苦しんでいる人がいるので、真剣に全身を耳にして、ただ聞くだけです、「聞く」というより「聴く」と書いた方がよいでしょう。今、それは信仰的なことだと言いましたが、そこに三位一体の神が臨在してくださる時、いやしが起こるのです。その時、忠告してはいけません。忠告すると、たといその忠告が、じつに適切で当たっていても、適切であれば適切であるほど、それは悪く作用します。それは相手の自立心をそいでしまうからです。神が入る箇所に、人間の忠告が入ってしまうのです。いやしは行われません。ですから、聞くことは、共感でなくてはなりません。
 ふつうローマ書は、「信仰によって義とされる」ことを中心的に述べていると言われます。しかし、後半は信じて義とされた者の生活・倫理(聖化)をも述べています。信仰によって義とされるとは、ここで言えば、「キリストもあなたがたを受け入れてくださった」と言うことではないでしょうか。あなたの罪にもかかわらず、キリストは十字架の上であなたを受け入れてくださったのです。キリストは、お前は罪で汚れているから受け入れない、きれいになってからいらしゃいと、おっしゃいません。罪のままで、わたしのもとに来なさい、「すべて労する者、重荷を負う者は、わたしに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」と言ってくださいます。しかし、それだけでなく後半は、義認にたいして聖化、きよめられた生活が書いてあります。ここで言えば、 「あなたがたも互いに受け入れて、神の栄光をあらわすべきである」ということになります。キリストに受け入れられたわたしたちが、他者を受け入れないとすれば、神の栄光は現れないことになります。 このことは、わたしたちのあらゆる生活の分野で応用することができます。モルトマンという神学者は、 「空の鳥が空気を必要とするように、魚が水を必要とするように、わたしたち人間は、互いに受け入れられることを必要としている」と言っています。またロジャースというアメリカの心理学者は、「受容」ということが、心の病んでいる人に必要ないやしであるとしています。現在、子供から大人まで、受け入れられることを必要としているのではないでしょうか。皆さんが、何か苦しいことがあって、友達に相談に行きます、その時、その友達が、賢くもあなたの間違っている点を指摘して、「あなたはこういう点が悪い、こうしなさい、ああしなさい」と言ったら、どうでしょう。そのことが、ピッタリあたっていればいるほど、あなたはやるせなくなって、「もうけっしてこの人のところには相談に行くまい」と思うのではないでしょうか。その友は、あなたの苦しみを聞いて、受け入れ、共に泣いてくれればよかったのです。人は、解説や、説教を聞くために相談にゆきません、ただ共感を求めて、救われたいと思うのではないでしょうか。もし互いの間に、「受容」が起こるなら、その時、あのキリストの受容が指し示されるのであります。 教育も同じではないでしょうか。教育とは、英語でEducation、「引き出す」という言葉が、もとになっています。教育とは、神さまが、その子に与えているものを、引き出し、育てることにほかなりません。真理を教師が教えるのではありません。真理は、神のもとにあるのです、それを示し、引き出すことが教育です。子供自身が発見するのです。わたしたちは、それをただ引き出す産婆の役をするだけです。それ以上するのは悪から出てきます。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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