11月13日「労働と愛」説教要旨
雅歌  6章2節〜3節

 雅歌は、旧約聖書と新約聖書を合わせた聖書全体の丁度真ん中にあります。それは愛の歌です。「神は愛なり」ということが、聖書の中心思想とすれば、聖書の真ん中に愛があることは理にかなったことかも知れません。しかし、これは愛と言っても、神の愛アガペーではありません。男女の恋愛の歌です。どうして恋愛歌が、聖書の中に入っているのでしょう。賛美歌136番「血潮したたる主のみかしら」は、本来ラテンの恋愛歌だったそうです。このように神の愛(アガペー)と人間の愛(エロース)とは、どこかでつながっているのです。この関係は「労働と愛」についても言えるのです。労働(仕事)は、私たちの日常的なもの、それは一般恩寵の世界(エロース)でしょう、特殊恩寵(イエス・キリストの恵み)なしには、私たちの仕事は生かされないのです。「労働」という言葉は、私たちの働きをつらい苦しいものとする響きがあります。「仕事」の方が、「仕える」、「奉仕」の意味があります。もともと「働く(はたらく)」とは、「はたを楽にする」という語呂合わせがあります。保守的な神学では、創世記3:17以下にあるように、労働は、罪の結果として考えます。しかし、それは堕罪後の世界です。その前の創世記2章ではそうでありません。労働は、神の祝福の中にあります。その祝福された労働には、三つの意味があるように思います。
  1 自己表現 2 創造性 3 他者性 (いずれも「愛」と関係があります)。 しかし、今日問題は、三つあります。1 3Kと言われる下層労働 2 ベルトコンベア式労働 3 機械化による問題等であります。 このような労働の生きた創造と離れた問題を、オランダでは、国民総パート化(ワーク・シェアリング)によって解決しました。オランダはかって七十年代後半から八十年代、「オランダ病」と言われるほど経済が停滞しました。それが今、オランダの奇跡と言われるほど経済が豊かになっています。オランダはパートタイムとフルタイムとの間に労働条件の違いを一切認めず、時間単位同じ仕事は同じ賃金、また年金、保険も一切平等です。またこれは日本では考えられないことですが、課長でも部長でも管理職が、パートであることも可能です。男女差別もありません。するといろいろな組み合わせが可能になります。例えば週三日だけ会社に行き、後は別な前からやりたかったことを、一例をあげれば小さなお店を開くとか、コンピューターの仕事をするとか。また夫婦でうまく組み合わせて、夫三日、妻三日と働き、その曜日をずらして家庭のことをし、常に夫婦いずれかが子供のめんどうを見れるようにするとか、あるいは二人の働く三日を同じ曜日にし、他の空いた日は共同の企画の仕事をするという芸当もできます。オランダの失業率は低下し、また家庭にもよい影響が現れ、子供の教育に多くの時間がさけ、ゆとりある生活ができるようになりました。それから、健康への影響も顕著です。パートでゆったりし好きな仕事を選べるから、仕事が趣味と一致する人も多く、生き生きとした生活ができ、そうしたゆとり生活が健康に影響しないはずはありません。これをそのまま日本で真似することは難しいでしょう。それは義理人情にしばられ、新しいことをやろうとすると、保守的な政治家や官僚が抵抗するからです。見栄や外見を重んじる日本人が、パートで満足するでしょうか。私は経済の背後には政治があり、政治の背後には文化があリ、そのまた後ろには宗教があると考えています。
   「神さまが、すでに現在の私たちの歴史の中で、キリストの贖罪的に働いています。神は聖晩餐におけるように、人間の罪をゆるし、新しいいのちに生かしてくださいます。それゆえ、たとい客観的には希望のない状況であっても、この歴史において神がすでに贖罪的に働いていおられることを語ることは、人間の企画が神の生命の根源によって意志されているものとして信じる信仰の宣言なのです。働く者、仕事する者の私たちの共働の創造力の源として、神があることを主張することは、私たちに、何をやっても仕方がないという決定論を乗り越えさせるものです。神と人間の、絶対的尊厳の主張は、相互に依存しているのです」(ゼレ)。
   雅歌は、結婚とかその他どんな社会制度についても言及していません。生殖とか家族に焦点を当ててはいません。人間の性における創造の成就を賛美しています。「苦しみ、収穫のなさ、支配」と言った一切のことから離れています。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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