10月9日「逃れる道」説教要旨
コリントの信徒への手紙 一 10章 6節〜 13節

 


  「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」。これは直訳すると「あなたがたの会う試みで、人間的なもの以外のものはありません」。「世の常でないものはありません」(口語訳)、「人の常ならぬはなし」(文語訳)と訳してあることばの原語は、「人間的なもの」です。それは、「人間なら誰でも出会う、普通の出来事」と言う意味です。非常な苦しみの中にある人は、自分の苦しみを特殊化します、「自分ほど苦労している人はいない」とか、「自分の苦しみは誰にも分からない」などと言います。ある養護学校の先生の話によると、障害児をもつ親御さんは、たいがい「先生にはわたしたちの苦しみは分からない」というそうです。その時、彼は親御さんに言いました、「あなたは自分の苦しみを特殊化していませんか。そしてその苦しみの中に閉じこもっているのです。それであなたも、あなたのお子さんも幸せになりますか。さあ苦しみに負けないで、いっしょに戦ってゆきましょう」と。
 確かに試練は、人間的どころか、スーパーマン的力をもっています。その前に弱い人間はひとたまりもありません。それほど苦しみは悪魔的です。けれども悪魔の働くのは十日間にすぎません。「見よ、悪魔があなたがたのうちある者をためすために獄にいれようとしています。あなたがたは十日の間苦難にあうでしょう。しかし、死にいたるまで忠実でありなさい」(黙示録二・一〇)。そう記されています。つまり十一日目には、あなた解決のきざしを見るのです。しかし、ある人は言うでしょう。「十日どころではありません。わたしはもう一年も二年も苦しんでいるのです」と。十日とは、きっかり十日という意味ではありません。十という数は、完全数です。その苦しみには、限りがあるという意味です。ある人の言葉に、「神は八方をふさがれる時、天の窓を開けておられる」とあります。その苦しみの限界を知る時には、人は、天の窓の開かれるのを経験しないでしょうか。「われもろもろの全きに果てあるを見たり、しかし、あなたの戒めは限りなく広いのです」(詩編119:96)。  
  また「試み」(こころみ)とは、神がわたしたちの心を見るのだとあります。つまり、わたしたちが本当に神に従っているのかどうか、神がわたしたちの心を見られるのです。そうとすれば、試練は人間的どころか、神的ではないでしょうか。そうです、だから次に「神は真実です」と続くのです。試みは、現象として見たらば人間的なものにすぎません。しかし、その本質は神的なものにほかなりません。その試みを通して、わたしたちは「神は真実です」との信仰に到達するのです。逆に言えば、試みはすべて神的だから、つまり「神は真実」だから、この世に耐え得ぬ試みはないのです。神の真実に到るために、わたしたちは、「信じきる」ことが大切です。「立っていると思う人は、倒れないように気をつけなさい」。しかし、わたしたちは、自分が立っていると思う時こそ、危険です。「きっとあなたが立っていると思っている、その瞬間は、確かでしょう。しかし、つまづきは来るのです。その時、事態は変化するでしょう」。詩編の詩人も言っています、「安らかな時に、わたしは言った、わたしは決して動かされることはないと、主よあなたの恵みをもって、わたしを揺るがぬ山のようにされました。あなたが御顔をかくされたので、わたしはおじまどいました」(詩編三〇・六)。わたしたちが立っているのは、まさに恵みによって、神が揺るがぬ山のようにされたからにほかなりません。自分で立っていると思う人は気をつけなさい。しかし、「神は真実です。 あなたがたに不可能な試みに会わせることはありません。それどころか試みとともに、耐えることができる逃れ道を備えてくださいます」。またテモテへの手紙には、「たといわたしたちは不真実であっても、神はたえず真実です。神はご自身を偽ることはできないからです」(Uテモテ二・一三)とあります。このような試練の中にあっても、この神の真実は変わりません。「女がその乳飲み子を忘れて、その腹の子をあわれまないことがるでしょうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはありません」(イザヤ四九・一五)とあります。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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