8月14日「神の栄光が現れるため」説教要旨
ヨハネによる福音書 9章1節〜7節

 

   「イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた」。ここには大変不幸な人がいます。それは生まれつき目が見えないことです。目が見えないことだけでも不幸ですが、「生まれつき」、これはどうしようもなく、不幸は倍加します。不幸の最大は、その理由が見出だせないことだからです。「意味を知っている人は、たいがいのことに耐えることができる」(ニーチエ)。交通事故で子を失った親御さんが、交通遺児のための資金を作って役立てたといいますが、それは自分の子が死んだ不幸を、プラスに変えるために、より大きなことに奉仕したのです。意味とは、より大きなことに仕えるところに出てきます。けれども今、この不幸の人を、一番先に発見されたのは、イエス・キリストであることに注目しましょう。「イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた」。人は、必ず自分の関心のあるものに第一に目がふれ、気がつきます。イエスは、不幸な人、貧しい人を愛しておられますから、まずそのような人に目がゆきます。多くの人が無視しているような、この気の毒な人に、第一に目を注がれるのは、ほかでもなく、神の子イエス・キリストであります。そしてそのことこそ、ここで言われている大きな救いでなくて何でしょう。今、あなたの気にしていること、心配なこと、それにいち早く気がつかれあわれみの目を注がれるのは、あなたの主イエス・キリストであります。「このような者にこそ、真っ先に神の光りが輝くので、ほかのだれにでもありません。そしてこの光は、この世のいかなるものも、与えることのできないものであります」。
   ところが「弟子たちは 、イエスにたずねて言いました、『ラビ、この人が生まれつき目がみえないのは、誰が罪を犯したためですか。この人ですか、その両親ですか』」。わたしたちもよくやりませんか。何か不幸があると、その原因をたずね、それは先祖のたたりだとか、前世の因縁だとか、いろいろ説明をもっともらしくつけます。あるいは、あれは本人が悪いのだ、自業自得だなどと言います。また親のせいだ、親の因果が子に報いたのだと。説明はいくつでもあるでしょう。しかし、わたしたちの説明は、いつも過去からの説明です。言ってみれば宿命観に支配されています。 わたしたちはどうでしょう、宿命観というような、高尚なものでなくても日常生活で、たとえばひとの性格とか、自分の能力とかを考える時、いつのまにか何か決定的なものとして扱いませんか。「うちのひとは、めんどくさがりで駄目なのよ。性格でどうにもしょうがない」とか、「わたしはこの点、まったくの能無しで、駄目」とか言わないでしょうか。しかし、長い生活のなかで、案外決定的なものは少ないように思います。駄目な人が、けっこう力を発揮する場合があるのです。問題は、わたしたちの中にある「過去思考」であります。駄目だと思う心が、いっそう駄目に拍車をかけるのです。ところが今、イエスは言われます、「この人でもその両親が罪を犯したのでもありません。ただ神の御業が、この人に現れるためです」。言ってみれば、このイエスの答えは、弟子たちやわたしたちのように過去からではなく、反対に将来から、これから、神がなさろうとしていることから説明します。いやそれは過去からのように、単に観念的な説明、意味を与えることではありません。 「神の御業が」と言う時、そこには、これから、この不幸な人に、神がなさろうとしておられる行為が問題になっています。神が全能の神が、これからなさろうとしていることに目が注がれています。神は、宿命や過去に縛られません、神はいつも新しいのです。 しかも神は、説明ですまさず、事を行われるのであります。 「わたしは、あなたがたの時代に一つのことをする。それは、人がどんなに説明して聞かせても、あなたがたのとうてい信じないような事なのである」(使徒行伝13:41)。そして人間ではなく、神がそれをなさる時、宿命と見られるような不幸すらも、その恵みの業の対象なのです。何ものも、この神のみわざを妨げるもはありません。神は最も不幸のどん底にいまし、他では見られないすばらしいことを行われるのです。その材料は、人間が捨てて顧みないような、どん底の不幸の場所であります。 「このような人のために生きる時のみ、人は神の栄光の輝きを見、その光に照らされてた生を発見するのであります」。奇跡を信じなくてはなりません。しかし神の御業が行われるには、時があります。わたしたちは待たなくてはなりません。イエスは昼と夜の例で、説明されました。昼は働く時、夜は待たなくてはならない時です。一日の内に夜と昼とがあるように、わたしたちの人生も、夜と昼とがあります。夜は全く、わたしたちが、ぐうの音もでないほど、打ちのめされた時ではないでしょうか。けれども昼があります。わたしたちは、その昼の間に働かなくてはなりません。そして神の選ぶその時が一番よいチャンスなのです。信じて待つ者のみが、そのチャンスにあずかるでしょう。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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