7月31日「預言者イザヤの召命」説教要旨
イザヤ書  6章 1節〜8節

 

  預言者イザヤを召した神は「聖なる神」です。すべてを越えた栄光の神であり、その前に自分は罪人です。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た」と告白します。主の祈りでの「御名をあがめさせたまえ」は、「聖とする」意味です。聖なる神、それは「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いはあなたがたの思いよりも高い」(55:8-9)。つまり超越しているお方です。しかし、その「衣の裾は神殿いっぱいに広がっており、セラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来て、わたしの口に火を触れさせて言った。『見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された』」と。いと高き聖なる神は、低くなって罪をゆるす愛の神であります。イザヤは、この聖なる神に、心からなる信頼をささげます。
T 信頼、 アッシリアの王が攻めてきた時、ヒゼキア王は、エジプトに救いを求めます。しかし、イザヤの答えは、「助けを得るためにエジプトにくだり、その馬にたよる者はわざわいだ。彼らは戦車が多いので、これに信頼し、騎兵がはなはだ強いので、これに信頼する。しかし、イスラエルの聖者を仰がず、また主にはかることをしない」。「あたながたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにしてより頼まば力を得る」(30:15-16)。その静かな信頼は、ただじっと何もしないことでなく、「立ち返る」、神に帰る運動です。この信頼は、私は罪深い者との、宗教的、信仰的体験からきます。私が小さくなればなるほど、神が大きくなります。本当に大きい人とは、実は神の前に小さい人なのです。しかし、信頼が裏切られた時にも、イザヤの救い主への待望は変わりませんでした。
U 救い主への待望(インマヌエル 神われらと共に) 「 イザヤは言った。『ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に、もどかしい思いをさせるだけでは足りず、わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで、彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる』」(7:1-17)。つまりそれは新約聖書につながり、クリスマスに通じる「インマヌエル」です。イザヤは最終的には、終末的救いに望みをつなぎました。それは現実的平和にとつながれました。
V 平和  「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。あなたは深い喜びと、大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように、戦利品を分け合って楽しむように。彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を、あなたはミディアンの日のように、折ってくださった。地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく、火に投げ込まれ、焼き尽くされた。ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる』」。これは平和共存であります。そしてそれはさらに自然との共存を生みます。
W エコロジー(動植物との平和共存)  「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる。狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。」(11:1-9)。「野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ、大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ、カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。熱した砂地は湖となり、乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは、葦やパピルスの茂るところとなる。そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ、汚れた者がその道を通ることはない。主御自身その民に先立つ」(35:1-7)
X 終末への待望  「そこでわたしは言った、『主よ、いつまでですか』。主は言われた、『町々はあれ廃れんすむものなく、家には人影もなく、国は全く荒れ地となり、人びとは遠くへ移され、荒れはてた所が、国の中に多くなるときまで、こうなっている。その中に十分の一の残る者があっても、これもまた焼き滅ぼされる。テレビンの木、またかしの木が切り倒される時、その切り株がのこるように』。聖なる種族は、その切り株である」(6:11-13)。イザヤは、バビロニア捕囚を預言していました。しかし、その困難の時、イザヤの希望は実現しました。イザヤの弟子の時代です。「わたしはわが受膏者クロスの右の手を取って、もろもろの国をその前に従わせ、もろもろの王の腰を解き、とびらをその前に開かせて、門を閉じさせない、と言われる主は、その受膏者クロスにこう言われる。『わたしはあんたの前に行って、もろもろの山を平にし、青銅のとびらをこわし、鉄の閂を断ち切り、あなたに暗いところにある財宝とひそかな所に隠した宝物を与えて、私は主、あなたの名を呼んだ、イスラエルの神であることを知らせよう』(45:1-3)。このクロスは、バビロニアを滅ぼし、新しい秩序をたてた、ペルシアの王であります。彼はその占領した民族の宗教、慣習を尊重した、英明の王であり、イスラエルをその捕らわれから解放したのみならず、イスラエルの神殿を建てさせました。これは今のイランです。現代の問題は、ニヒリズムと共に、原理主義であります。クロスは、その原理主義を破った王です。諸国民をそれぞれに尊重した王です。彼が旧約聖書にしかも、メシアとして描かれていることは、いかに旧約聖書に、大らかな精神がやどり、イザヤはいかほど大きな信念と理想をもって生きていたかが分かります。その終末論は、エコロジーももっていたのです。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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