7月10日「罪と罰」説教要旨
ヨハネによる福音書    8章 1節〜11節

 

    姦淫を犯した女に対して、石打の刑に処すべきだと迫る人びとに、イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われました。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残りました。皆さん、これは何と恐ろしい瞬間ではないでしょうか。「あなたがたの中で罪のない者」。一体わたしたちの中で罪が少しもないと言える者がいるでしょうか。
「正しい人はいない、一人もいない」とパウロは叫んでいます。「すべての人が罪を犯したゆえに、神の栄光を受けられなくなっている」(ローマ三・二三)とも言っています。
  
そして世界でただ一人罪のないお方が、「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」と言われました。女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。人間が、誰一人として石を投げ、この女の罪を断罪できない時、ただひとり罪のないお方が、罪をゆるしてくださるのです。罪のないイエスだけが、世界でただひとり、この女に石を投げる権利のあるお方なのに、そのお方だけが罰しないどころか、罪をゆるしてくださるのです。 日常わたしたちは、人の罪ばかり目につき、他人の悪をせめるに急です。

  しかし、自分が逆に責められる立場に立ったときを考えて見てください。今、あなたは、この女のように衆人監視の中で、非難されている、あるいは、自分が人からひどく悪く言われた時、考えてみてください。その時、あなたは少し、罪の本質が分かりかけたと言えるでしょう。「罪のない者、まず石をなげうて」と言われた、その神のさばきの底に、実は神のゆるしが、無限のゆるしがあるのです。それはイエス・キリストの十字架を表しています。あの十字架の縦の棒は、神の厳しいさばきを表しています。「罪のない者がいるか、いるなら、その人だけが石をなげうて」。このさばきの前に立ちうる人は一人もいません。そのひとりもいない底に、十字架の主は立っておられるのです。そのさばきの底に、あの十字架の横の棒が表すゆるしをもって、立っておられるのです。十字架の縦の棒は、神の厳しいさばきを表して、そして十字架の横の棒はゆるし、神の無限のゆるしをあらわしています。その二つが交差するところに、神の愛のしるしである十字架があります。 「イエスはすべての悪に反対し、完全に律法を肯定するゆえに、またその哀れみも、神の前に自由で、限界がなく、力強いのです。イエスは悪が好きだからゆるすのではありません。むしろ悪を憎むゆえに、罪の中にある人間をそのままにするためにではなく、かえって、そのような人間をを罪からあがない出すためにゆるすのです」。
   さきほどのローマ人への手紙は言います。
「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらにイエスを信ずる者を義とされるのである」(ローマ三・二五−二六)。
  ここでは十字架は、「神みずから義となるため」とあります。そして同時に、「イエスを信ずる者を義とする」のです。つまり十字架は、第一に神の義のため、神の正義が現れるため、この義の前に誰一人立つことはできないのです。「あなたがたのうち罪のない者が・・・」と言う、このさばきの言葉の前に立ちうる人は一人もないのです。しかし、そのお方は、そのさばきの底で、このイエスを信ずる者を義としてくださいます。「わたしもあなたを罰しない」と言ってくださいます。十字架とはこのさばきと、ゆるしの交差する場所です。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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