7月3日「「神のヒューマニズム」説教要旨
ルカによる福音書 10章25節‐37節

 

  
  この「親切なサマリア人のたとえ」は、一人のユダヤ人の苦悩から始まります。しかし、この苦悩は隠れています。場所はエルサレムからエリコに下る途中だと言われます。そこは昼なお暗い、人通りも少ない場所です。この誰も見ていない場所こそ、悪の働く場所です。しかし、この隠れた誰も見ていない場所は、同時に宗教の働く場所でもあります。誰もいない、叫んでも答える者もいない、一切誰も見ていない、そこでこそ、人間は、自分の思いのままの罪の姿をむき出しにして野獣に帰るることでしょう。しかし、同時にその誰にも見られない場所こそ、もう一つの眼がじっと見ているところではないでしょうか。そこでは隠れたるにいます神が見ておられます。そこは、最悪の罪が働くと共に、聖なる神が働く場所であります。この一人の世界、孤独の場、秘密の世界、そこで「全心、全霊をこめ、全能力、全精神をかたむけて、隠れたるにいますあなたの神を愛しなさい」、「あなたの隣人をあなた自身と同様に愛しなさい」、この二つの戒めが、重なって現れてくるのではないでしょうか。そしてこのような場所は、決して架空なところではなく、現実に存在するのです。あなたはこの現実を素通りすることもできます。見て見ぬふりして素通りした二人は、神殿に仕える宗教家でした。神に最も近いはずの、この人びとが、実は神に最も遠かったのです。
 しかし、ここにもう一つの出会いがあります。それはユダヤ人が敵視してやまなかったサマリヤ人が、「旅をして、ここを通りかかり、その人を見て気の毒に思い、 近寄って、傷口にオリーヴ油とぶどう酒とをぬり、包帯をしてあげました」。それは、この世のただ中にある聖所です。そこでは、もはや民族の違い、性格や立場の違い、いや宗教の違いさえ問題になりません。ただこの一人の苦悩と、そこに立たれる十字架の苦悩の主と、その愛のみが問題であります。そこでは、この苦しみを共に苦しむ共苦・共感、共同責任だけが大切なのです。それが真の宗教が求める「永遠の生命」に通じるのであります。それは一時の感情や、思いつきではありません。いつまでも変わらない持続性があります。それは、第一の「全心、全霊をこめ、全能力、全精神をかたむけて、隠れたるに見たもうあなたの神を愛する」、その信仰なしにはできません。さて最後にイエスは、「あなたも言って同じように行いなさい」と言いました。ここでは隣人の定義の変革ではなく、隣人関係の変革が語られているのです。初めに律法学者は、「わたしの隣人とは誰ですか」と愛する対象を、自分の同胞であるユダヤ人のみに限定しようとしました。そのことによって自分の正しさを弁護しようとしました。しかし、愛する対象を自分の好みによって限定するなら、愛することはいともやさしいことになりませんか。それは自分を変えないで、愛する対象を変えるだけですみます。しかし、このたとえの中心は、隣人の定義を変えることではなく、隣人関係の変革にほかなりません。それはほかでもなく、あなた自身を根本的に変えることにつながります。
 そのためにイエスは、「誰が強盗に会った人の隣人となったと思いますか」とおたずねになりました。良く考えてごらんなさい、今、ユダヤ人が敵と呼んでいるサマリヤ人が、傷つき倒れているユダヤ人であるあなたに近づいて、親切に介抱してくれたのです。お金を出して宿の主人に頼んでまでくれたのです。キリストとは誰でしょうか。この苦しむ者の側に立たれ、自分自身十字架を負われる、わたしの身代わりです。わたしの傷みは、彼の傷みであり、わたしの苦悩は、実にこの主の苦しみなのです。しかし、イエス・キリストは現実に、何びとも否定しえないこの苦しみの事実に立つ人にとどまりません。「あなたも行って同じように行いなさい」と言われます。そうです。あの律法学者の「永遠の生命を得るには、何をおこなわねばなりませんか」と言う、最初から宗教の実践的問いから始まりました。そして今、このイエスの実践的命令で、このたとえは終わります。十字架のイエスは、あなたをあの悩み苦しむ人の現実に立たせるお方でもあります。あなたもこの良い親切なサマリヤ人であるイエスと同じように、苦しむ人の現実に立ち、その苦しみを負って歩みなさい。その時、あなたは一人でそれをしているのではありません。キリストにおいて、人類の苦悩の場に立たれたあの生ける神と共に勝利の道を、十字架と復活の勝利の道を歩いているのです。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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