6月12日「時間の主」説教要旨
 −詩編 31編 14節〜24節−

 

 


   しかし、主よ、わたしはあなたに信頼して、言います。「あなたはわたしの神である」と。 わたしの時はあなたの御手にあります。わたしをわたしの敵の手と、わたしを責め立てる者から救い出してください”(口語訳)。
「主よわたしを憐れんでください。 わたしは悩み苦しんでいます。・・・」(9、10節)


今、詩人の苦しみは、老齢になって、病み、まわりに敵をもっているようです。
老いるという問題は、四つです。
1孤独、人間関係がうまくゆかない
2 死、からだの衰え、心もしぼむ
3 仕事、趣味、することがない
4 経済がたちゆかない。

これは一言で言えば、四つの「ない」です。友がない、健康がない、することがない、金がない。しかし 「わたしは裸で母の胎を出た、また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られるのだ。主の御名はほむべきかな」(ヨブ1:21)です。 最近は老人のためにいろいろな本が出て、健康的な生き方、隣人関係をもつ仕方、また立派に生きている老人について書いてあります。 しかし、立派な人では参考になりません。

私が知った老姉妹は、脊髄カリエスで寝起きが不自由、身寄りもなく、信仰の友の所に世話になっていました。 しかし、彼女は常に、生き生きとし、「私は幸せだ」と感謝していました。
彼女にはすべてがない。ただ信仰だけがあります。 しかし、究極的には、ここに記されているように、「わたしの時は、あなたの御手にあります」。
ここでは、決して、この時間というものが、一般に時というものが、神さまのものだと、言っているのではありません。 それは「わたしの時は」です。つまり、あなた自身の時です。
病気が、戦争が、失業が、失敗が、このいやな性格がある、 このありのままのあなた、「わたしの時」です。この時、あなた、わたしだけがもっている時が、神の御手の中にあるのです。 「あなたの御手」とは、「神の御手」です。それは、イエス・キリストの暖かい御手です。あの病人に手をおかれた、 その暖かい御手です。イエスは、私たちの時間を三十年生きられました。

この時間は、それゆえ、神の時間にほかなりません。わたし自身の時が、この方、神の御手の中にあります。その時、あの四つの「ない」は、素晴らしい特徴であることが分かります。

若いうちは、何かをしなくてはならないと思います。しかし、六十、七十以上になると、「何者でもない」ことが分かります。 これまですべてのことをやってきたのは、この「何者でもない」ことを知るためであったと悟ります。 けれども、その時ほど、神とひとつになり、豊かな自由な時はありません。
私たちは、人生が終わりに近づくと、初めて、人生の意味が分かるのではないでしょうか。あの四つの「ない」は「無」を意味するのではありません。 天国銀行に預けてあるのです。

時は、過去・現在・将来とあります。
年を取ると、過去は記憶の底にあります。楽しかった過去で「あの時代はよかった」という、なつかしみです。 しかし、それだけでは過去の人間になってしまいます。
大切なのは、今です、現在です。

「わたしの時は、あなたの御手にあります」。

その時の、「わたしの時」は、少なくとも第一には、現在です。 さらに聖書で大切なのは、将来です、 「まさに来たらんとする」時です。ヘブル書に「イエス・キリストは昨日も、今日も、とこしえまでも変わりたもうことなし」(13:8)とあり、 そこで、将来のみ、時間の形式が違います。
もし同じにすれば、「昨日も今日も明日も」とならねばなりません。しかし、将来だけ「とこしえまでも」と時間の形式を変えます。それが「希望の神学」のもとにある、 聖書的時間理解です。それで「わたしの時は、あなたの御手にあります」とは、わたしの将来が、「あなたの御手にある」ことではないでしょうか。 今、現在、あなたとともにいるお方、「而今」です。しかし、その方は「来るお方」です。

「主はほむべきかな、包囲された町のように、わたしが囲まれた時、主は驚くばかりに、いつくしみをわたしに示された」(21節)。
「すべて主を待ち望む者よ、強くあれ、心を雄々しくせよ」(24節)。

ですから「わたしに将来はない」と言ってはなりません。「主よ、わたしはあなたに信頼して、言います。『あなたはわたしの神である』と。わたしの時はあなたの御手にあります」。 わたしは、あなたの御手から、いつでも、必要なものをいただくことができるのです。
聖書には「いのち」を表す語に「ゾエー」と「プシケー」に二つがあります。 プシケーは、この世の生命、もう一つのいのち「ゾエー」は永遠のいのちです。 私たちは、いつもこのいのち、プシケーばかりに目を留めてゾエー」を忘れていないでしょうか 生まれた時から見ると、時は過ぎ去って行きます、しかし、再臨の主から見る時、時は、将来に向かって満たされてゆく時です。目標に近づいてゆく時です。 分かりますか、イエス・キリストにおいて時が、時間が変わるのです。来りつつある時となるのです。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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