6月5日「善悪の彼岸」 説教要旨
 −マタイによる福音書 13章24節〜30節−  4章5節〜6節− 

 

 


   天国は、神である主人が良い種を地上にまいたところから始まります。この畑、世界は、そこに良い種をまいたお方の所有です。神が、その中心に立っています。したがって、神に根ざした業は、どんな悪や、悩みや、困難の中にも、強靭に耐え抜いて育ってゆきます。
それゆえ、どんなことが起こっても、決してひるんではなりません。
しかし、

「人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った」。
この世界で、悪は我が物顔にはびこり、善を駆逐して行くかのように見えます。皆さん、そう見えませんか。「この世界は、善なる神がお造りになったのではないか」。この疑問はいつの時代もつきまといます。

第一に、この神の畑に毒麦が入り込んだのには、はっきりとした理由があります。それは「偶然」とか「運命」といった匿名のものではありません。明かにそこには「敵意をもつ者」がいます。悪の原因は人間にあるのです。
第二に、にもかかわらず、「人々が眠っている間」で、私たちには悪の正体を完全に見極めることはできません。罪は自ら、その本質を盲目にします。
罪は自らの姿と原因を知らない、そこに罪の罪たるゆえんがあります。
罪とは、矛盾した存在にほかなりません。しかし、罪は、神の造られた世界に決してあってはならないものです。「敵」と呼ばれているように、神の意志に反するものだからです。
しかし、現実に神の造られた世界に、神に反逆した意志があります。
けれども、この矛盾撞着は、乗り越えらるべきものとして存在しています。そこに悪の存在のゆるされている意味があります。

たとえの終わりをごらんなさい
「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」とあるではありませんか。
毒麦は焼かれるために、そこに存在しています。仕方がないとか、宿命とか言って肯定し、あきらめ、妥協するために存在しているのではありません。それは神の世界にはあってならないものです。
毒麦の存在は抜き去られることにあります。否定的存在が、神の世界に存在するのは、一時的に存在をゆるされているのです。僕たちはまいたはずのない毒麦が生えたのを見て、こうたずねました。

「だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう」。

私たちは、いつもこんなふうに問うのではないでしょうか。「神の造った世界に、悪があるのはなぜですか」。確かに悪の原因は、個々の狭い場面だけを見てみれば、ある程度分かります。世の識者は言います。少年犯罪の増えた理由は、社会学的、青年心理学的にいろいろな面から説明します。歴史の本には、ヒットラーやナチズムの起こった原因について、いろいろ書いてあります。
しかし、さらに深く突っ込んで見ると、その理由は分かりません。「敵の仕業だ」、これが主人の答えです。私たちには分かりませんが、主人には分かっています。しかし、「敵の仕業だ」としか教えられません。

ここで私たちは、イエス・キリストの十字架を考える必要があります。この世の罪と悪を連帯的に負われる主のみが、悪の意味と罪の原因を知っています。この主人は世にもまれな主人で、罪と悪を自らのものとして負うことによって、これを克服したのです。自分は罪や悪に無関係で、正義の士のごとく、破邪の剣を振るうというのと違います。神はこの不可解な人生の謎を、そのようにはお扱いにならない、罪と悪を自分の課題としてお受けになります。そしてこの人間の罪ひとつひとつを負うことを通して、最も醜悪な場所を、神の働く場所と変えられます。

罪のますところ、恵みもいや増す」
のです(ローマ5:20)。

そこでこのたとえの意味をまとめてみましょう。
1.罪や悪は、引き抜くべきものであるが、それが引き抜かれるためには、思い上がった正義感だけではだめです。ただこの罪を自ら連帯的に負う交わりの中でのみ、それは真に根本的に引き抜かれます。そこにイエス・キリストの生があるのです。

2.私たちの手前みそな正義感や善人気取りは、しばしば善と悪、敵と味方を取り違えます。あまりに早く悪を取り除くことは、善をも一緒にぬくことになりかねません。そして味方を敵にしてしまうかもしれません。イエスの示す方法は、真のさばき主、最後の法廷を知って、敵を味方とし、罪人を悔い改めさせて立ち返らせるのです。

3. 改革者にとって一番大切なことは自己改革です。熱狂的改革者は、自分の意志と力で、毒麦を根こそぎできると思っています。しかし、自分自身毒されていることに気づきません。

4. 悪を取り除く情熱よりも、善をより良く育てる方が急務です。善い麦が育てば、毒麦は成長を阻まれます。私たちは、ただ否定的でなく、つねに積極的に進まなくてはなりません。

5.しかし、これらのことは、決して正義の叫びをいい加減にしてよいことにはなりません。真のさばき主の前に謙虚になり、さばきに時があることを知らなくてはなりません。その時は、神が握っておられます。さばきは必ず来ます。毒麦は確かに存在します。しかし、それは今の時、存在をゆるされていますが、やがて抜き去られます。この時を待ち望みつつ、今できることをひとつひとつ確実にやってゆこうではありませんか。

 

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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