5月29日「対話する神」 説教要旨
−エフェソの信徒への手紙 4章5節〜6節− 

 

 


   コンピューター社会はニヒリズムを生みます。その薬は「名の神学」です。一匹の羊を追い求めるイエスの姿にそれが現れています。「名の神学」は「対話の神学」に進みます。「名」は対話の基礎であり、三位一体の根源にさかのぼります。神が愛とは対話する神、「三位一体の神」です。

「すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあって(創造者なる父)、すべてのものを通して働き(この歴史の中にきたキリスト子なる神)、すべてのものの内におられます(聖霊なる神)」。

私たちは子を通して三位一体を知ります。具体的には、イエスが「アバ[お父ちゃん]」と呼ぶゲッセマネの祈り、子としての祈り、また十字架の上での祈り、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」に認識の源泉があります。そこに二つの要素があります。一つは「対話」、もう一つは「苦悩」です。

根底にある父と子の深淵に、私たちの存在の根底もあります。子は捨てられます、それは対話がとだえることではないでしょうか。それを結ぶのは、聖霊、言い表しがたいうめきをもってとりなす霊です。そこに苦悩における対話が成立します。三位一体は人格に「私と汝」の基礎を与えます。それは自己を与える愛の神、「私と汝」を結ぶ聖霊の働きがあります。

マルチン・ブーバーは言いました。
「世界は人間の二重の態度に応じて二重です。根源語のひとつは、『私と汝』、もうひとつは『私とそれ』です。このように根源語が二つあるからには、人間の私も二重です。なぜなら、根源語、『私と汝』における私は、根源語『私とそれ』における私とは異なっているからです」。
この「私と汝」は「いのちの言葉(キリスト)」です。わたしたちの根源には、ただ法則や物質があるだけでなく、それらを造り、動かす、生きた人格的な言葉をもつ神がおられるのです。
この言葉は、肉体をとって現れ、救い主イエスとして示されました。

現代は確かに言葉の氾濫している時代です。情報、宣伝の時代です。しかし、それはいささか多すぎます。そのため反面、世代間で言葉通じなくなったり、親子で互いに断絶ができます。
無意味な言葉や事務的な言葉、自己主張の言葉は多くあっても、「いのちの言葉」が欠けているのではないでしょうか。ところが、このいのちの言葉は、からだをもち、そのからだでわたしたちを愛し、さらにそのため自分を捨てます。

「私と汝」という関係が、「私とそれ」になったなら、物の世界に入ることで、人間と人間との根本的関係を見失うのです。現代社会の根本問題は、この「私と汝」という関係が見失われて、いつの間にか「私とそれ」になっているのではないでしょうか。 

ゴーガルテンは、「私と汝」をキリスト論に応用して、こう言っています。
「『私と汝』、われとしての人間がそこから実存する「汝」は決定的には神としての汝である。イエスは徹頭徹尾神としての汝から生きました」。
「イエスはまさに絶対の否定、絶対の死によって、汝なる神に結びついたと言えます」。
「真の愛というのは何らかの価値のために人を愛するのではなく、人のために人を愛するということでなければならぬ。如何に貴き目的であっても、そのために人を愛すると考えられるならば、それは真の愛ではない。真の愛とは絶対の他において私を見るということでなければならぬ。そこには私が私自身に死することによって汝において生きるという意味がなければならぬ。自己自身の底に絶対の他を見ることによって、即ち汝を見ることによって、私が私であるという私のいわゆる絶対無の自覚と考えられるものは、その根底において愛の意味がなければならぬ。私はキリスト教においてアガペと考えられるものにかかる意味があると思うのである。アガペは憧憬ではなくして犠牲である。神の愛であって人間の愛ではない。神から人間に下ることであって、人間から神へ上ることではない」(西田幾多郎)。


三位一体の神の認識は、十字架に始まると申しました。

つまり「死」・「苦悩」・「無」・「絶望」・「罪」・「断絶」であります。多くの神学者の「三位一体論」は、このことを無視して、論理をすすめています。聖書を見ても、対話に造られた人間の断絶が記されています。いや、聖書の歴史は、この罪、断絶の歴史と言っても過言ではないでしょう。

今日、日本でも離婚や別居が増えてきました。この対話は、いつも破れ、断絶の危機にさらされているのです。けれどもこの、「私と汝」の関係が破棄されることはありません。破れている時も、人間の根本的関係が「私と汝」であることは、変わりなく存在し続けるのです。そこには聖霊の沈黙の言葉があるのです。

「もしも言葉に沈黙の背景がなければ、言葉は深さを失ってしまうでしょう」、「愛の中には言葉よりも多くの沈黙があります。『黙って!あなたの言葉が聞こえるように」(ピカート)。
対話は「受け入れ」を必要とします。「それだからキリストもわたしたちを受け入れてくださったように、あなたがたもお互いに受け入れあって神の栄光をあらわしなさい」(ローマ一五・七)。
「あなたと一番意見のあわない、あなたの目には誤った考えをもっていると思われる知人を選び出してごらんなさい、そして相手の見方、信念、気持を、鋭く正しく言えていると相手が認めてくれるまで話してご覧なさい。十回試みて九回は失敗するでしょう。なぜなら、あなたの相手に対する評価が、あなたの表現に入り込んでくるからです。したがって、真の共感は評価的あるいは診断的特質から切り離されたものです」(カール・ロジャース『人間尊重の心理学』)

「言葉でなく彼自身に耳を傾けるとき、そして私が彼の一個人としての意味を聞き取ったことを彼に知らせる時、多くのことが生じます」。「あたかも天空から響いてくる音楽のように、彼が直接いおうとしていることを超えた全体からの響きがあります」。三位一体の神が、私たちの間にはいる時、いやしが起こります。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
 


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