5月15日(日)ペンテコステ礼拝「聖霊の炎」 説教要旨
−使徒言行録  2章 1節〜21節− 
 

 

 


   聖霊の経験には、ここにあるように激しいものがあります。私自身中学生の時、水の洗礼を受けながら、霊の洗礼を受けていないのではないかと、疑問に感じ、それから聖霊を与えたまえとの祈りが始まり、『回心記』という本を次々に読みました。ある時、祈祷会に出ていたその時、司会者の話の間に、激しい聖霊を感じ、大声で泣き出しました。その時の感じを今かえりみると、聖なる、大きな神が現れ、その前に、「主よ、われは罪ある者なり、主よ、われを去りたまえ」という、あの大漁のあった時、ペテロがキリストの前にひれ伏して言ったのと同じ気持ちでした(ルカ5:8)。それと共に、すべての人に兄弟と呼びかけたくなる愛が生まれました。ただその激しい経験も、必ずしも完全なものでありません。二ケ月ぐらいたつと、その経験は薄れました。しかし、その時の聖霊は本物で、人間の経験が相対的なのです。 皆さん、この体験は貴重なものですが、炎のような激しい聖霊の体験です。しかし、すべての人がこのようなタイプの聖霊経験をするとは限りません。聖霊にはペテロ・タイプとヨハネ・タイプがあると言います。ペテロ・タイプは、このような激しいものですが、ヨハネ・タイプは、もっと静かなもので、場合によっては自分でも聖霊を受けたのかどうか、分からないくらいです。そうです、イエスが洗礼を受けた時、聖霊は鳩のようにくだったとあります(マルコ1:10)。炎のような聖霊もありますが、また平和の象徴である鳩のような聖霊もあるのです。
 しかし、まだあります。ヨハネ福音書十四章によると、聖霊はパラクレートスと呼ばれています。パラは「そばに」です。クレートスは「呼ぶ者」ですから、パラクレートスは、そばにいる「弁護者」のようなもので、「助け主」、「慰め主」とも訳します。「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である」(14:16)。その他26節、15:26。これはイエス・キリストがいなくなった時、その代わりに真理を教える霊であります。けれども、さらにローマ8:26以下には、「聖霊は弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈ったらよいか知りませんが、聖霊が自ら言葉にあらわせないうめきをもって執り成してくださいます」とあります。ここでは、聖霊は弱い私たちを執り成してくださる、執り成し手です。
 私はもう一回、第二の聖霊経験をいたします。それは親鸞かキリストかで迷った時でした。その時の聖霊は、私に十字架のイエス・キリストをはっきりと示しました。前の聖霊経験のように、聖なる偉大な神のまえにひれ伏して罪をおぼえる経験ではなく、十字架の愛、ゆるしでした。これで私の聖霊経験はいちおう完全なものになりました。この時、私は聖霊が真理を教えると言うことを身をもって覚えたのです。
 このように聖霊は各人各様に働きます。Tコリント12:3以下をごらんください。第一に、「聖霊によらなければ、誰もイエスを主と言い表すことはできません」。しかし、その賜物は各種あります。「賜物はいろいろありますが、霊は同じです」。皆さん、今、使徒行伝に帰りましょう。あの激しい聖霊も、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」のです。つまり、聖霊は十把一からげではありません。聖霊ほど一人一人を大切にするものはありません。そして最後に、「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する」。あなたも聖霊を受けるのです。それは弱い私を助けて、イエス・キリストという真理をしる知識に到達させるのです。しかし、聖霊は誰にもくだりますが、祈りなしには、くだりません。「天の父は、求めてくる者に聖霊をくださらないことがあろうか」(ルカ11:13)。聖霊をいただきたいと願う人よ、ひたすら熱心に祈り続けなさい。神は、求める者に臨みたまいます。

 

   
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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