5月01日(日)「招かれざる客」 説教要旨
−ルカによる福音書 14章 15節〜24節− 
 

 

 


   これは晩餐会です。晩餐の豪華なごちそうを用意して、待っている主人側、ホストがいるのです。そのように信仰とは、私たちの用意するものでなく、神が私たちのために用意してくださるものです。しかし 、あなたが何もしないのでなく、招きに答えなければなりません。ところが、私たちには、いつも事情があり招きを断ります。聖書の人びともそうでした。モーセ、エレミヤ、ヨナ、みなそうでした。備えられているのに信じないのです。神が小さいのです。文字通り、「あなたの神は小さすぎます」。そこでは、私たちの事情が、条件が大きいのです。ところが神の招待は、私たちの状況や事情を圧倒します。さて今、このたとえでも、招待を受けた人びとは三人三様の理由で断りだしたのです。彼らには、本来断る理由ありません。最初招待状に「出席」と書いたはずなのです。私たちは、自分が、神さまに造られたことを認め、ある人はキリストの救いを承認しているのです。その最初の招待は、オーケーしているのに、いよいよになると、断りだすのが人間の常です。決断と言うことから、人はみな逃げたいのです。現代社会は、皆、神から逃走中なのです。
 第一の人は、畑を買い、「出かけて行って、どうしても見なければなりません」。この人の理由は、「ねばならない」です。おお、何と私たちの間には、この「ねばならない」が多いことでしょう。おもしろいことに、英語では、「ねばならない(must)」を否定すると、「してはならない」という禁止の意味になりますが、ドイツ語では、この否定が、「する必要がない」の意味になります。本当にあなたは、そうしなければらないのでしょうか、よく胸に手をあてて考えてみてください。ひょっとして、「必要がない」のではないかと、時々考えてみることが信仰生活の肝要な部分だとは思いませんか。ブルームハルトという人は、「さばくな」ということは、「そもそもさばく必要がない」のだ、「なぜならば、神がすでにしていてくだるから」と言っています。第二の人は、「牛を買い、それを今、しらべにゆく最中だ」という、断り方です。これはいわば、現在進行形であります。これが、現実だ、今進行している、ほかにどうしようもない。いって見れば、現実の力とでも言いましょうか。私たちの中に、いつもこの「現実の力」が、幅を聞かせていませんか。すでに始まっていることが、唯一絶対のことなら、その現実がいつの間にか、偶像になりませんか。それならどうして、新しい事が始められるでしょうか。すでにあるものが、絶対なら、何も新しいことは始まりません。それを、打ち壊す勇気ある者のみが、新しいことに着手し、無限の可能性を引き出すことができるのです。また信仰の希望の将来をもつことができるのです。神、この根源的なお方に立ち返って、考え、そこから見る時、すべて進行形は言い訳けにすぎなくなります。最後の人は、「妻をめとり、結婚したから、行くことは不可能だ」と言うのです。結婚式を、突然する人はいません。前から分かっていたはずです。それなのにどうして、不可能なのでしょう。その人に良い薬は、「人には不可能だが、神にはすべてのことが、可能である」とのイエスの御言葉です。神は、不可能の瀬戸際にいつも立っていらっしゃいます。
 私たちの生活には、やはりこの三つの弁解が、かなり絶対的な力をもって、支配していないと言えます。神は、このような弁解を越えておられます。 その時、家の主人は怒って僕に言いました、「すぐに町の大通りや小道へ出ていって、 貧しい人びと・からだの不自由な人びと・目の見えない人びと・足の不自由な人びとをここに連れてきなさい」。一体、この貧しい人びとと、あの弁解の人たちとの違いは何でしょう。持っているのです、彼らは、あまりに持ちすぎているのです。ですから、弁解に事欠かないのです。ところが、この人びとは、持っていないのです。「幸いなるかな、貧しき者、神の国はその人びとのものです」。ところが、持っている人は、大切なものを、欠いていませんか。いつでも神に開かれた心が欠けています。しかし、話しはまだ続きます。「そこで僕は言いました、「ご主人さま、仰せの通りにいたしましたが、まだ席があります」。まだあまりの席があるのです。これこそ恵みの席です。神の恵みは、もう一杯になり「満員御礼」ということはありません。あなたも、その一員になることができます。

 

   
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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