3月06日(日)「神の真実・人の不真実」 説教要旨

 
−テモテへの手紙二 2章1節〜13節−  

 

 


   「パウロは、「多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい」と言っています。ここには二つのことが書かれています。一つは、「聞いた福音を忠実な人びとにゆだねる」こと、もう一つは「わたしと共に労苦をしてください」です。ここには二つの「共に」があります。信頼の「共に」と労苦を「共に」することです。互いに分かち合うことが、兄弟姉妹の関係です。苦しみは共にする時、喜びに変わります。そこでは痛み以上のもの、すなわち、「愛」を手にいれることができるからです。しかし、単なる「同病相憐れむ」ではありません。信仰なしには、「共に」は長続きしません。長い間には、互いに疲れてきて、つぶやきが出て、我が身可愛さで自己防衛するのではないでしょうか。キリスト者の真の「共に」は、ただ人間同志の一致協力ではありません。「キリストのよい兵卒として」であります。「共に」ある苦しみは喜びに変わります。それは不思議なことですが、事実です、非常に豊かに暮らしながら、孤独である時は、その豊かさは、半分の豊かに過ぎません。物がいくらあっても、精神的豊かさがなければ貧しいことになるからです。パウロは今、この「共に」の労苦と喜びを、自分の境遇に当てはめて説明し、証しします。彼は、「悪者のように、鎖につながれています」。ところが、彼が福音のために、悪者のように牢屋につながれても、福音が前進する事実があります。そのことは、逆らう者たちが雲のごとく現れて、キリスト教を撲滅しようとしても、キリストは死なず、よみがえって生きておられる証拠ではないでしょうか。宣教する者が、鎖につながれても、神の言葉が鎖につながれた訳ではありません。ここにわたしたちは、人間の不真実の闇を貫いて、神の真実が勝利する光を見ます。「たといわたしたちが不真実であっても、彼は真実にとどまります。彼は自分自身を否認することはできないからです」。このすばらしい言葉を味わいましょう。神の真実は、いつも負けて勝ち、敗れて立ち上がるのです。そうでないものは人間の計算に過ぎないでしょう。「人には多くの考えあり、されど神の旨のみ立つべし」(箴言一九・二一)。どんなに人間が不真実であり、この世が悪に染まっても、この神の真実は変わらず、勝利し前進するのです。人間の真実(信仰)は、この神の真実への応答です。真実は常に勝利します。「心のありのままの真実、これいかに尊いかな、もし人が、その心の真実をありのままを語るなら、たといその言うところ、いかに拙劣なるも、必ず彼に聞かんとする人あるべし」(カーライル)。真実は、このように、勝利します。真実は、人間の不真実を越えて勝利します。「彼はわたしを裏切った、だから信じない」ではなく、「彼はわたしを裏切った、にもかかわらず、わたしは彼を信じる」。これが、神の十字架の真理、神の真実です。うそは人を奴隷にします。何の奴隷でしようか。金の奴隷、名誉心の奴隷、エゴイズムの奴隷などでしょう。うそが勝利したためしはありません。たとい一時勝利したかに見えても、最後は敗北です。
 カンドウ神父は言いました。「わたしは最後にヴォルテールの詩を皆さんに紹介したいと思います。あのキリスト教に反抗し、キリスト教を敵視したヴォルテールにさえ、こいう美しい詩があるのです。それは、『もし神さまというものがあるとするなら、神さま、どうかわたしに幸福を与えてください』という意味になります。皆様も、夜中に目が覚めて、眠れない時どうぞ、このヴォルテールの詩を口づさんでください」。ここには、不信仰が真剣にあらわにされる場所には、不思議にも、信仰が輝くことが示されています。キリストの形のなるところ、不思議と、この二重の真理が見えてきます。「信仰を誇ってもいけません。それと共に、信じえない現実をただ悲しんでもなりません」。「主よ、信じます、信仰なきわれを助けたまえ」(マルコ九・二四)でなくてはなりません。神の真実は、人間の不真実の闇の中に輝くのです。

 

   
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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