2月27日(日)「主は霊である」 説教要旨

 
−コリントの信徒への手紙二 3章12節〜18節−  

 

 


   聖書では聖なる現臨の体験を記すのに、聞くということと並んで、見る、感ずる、味うという言葉が用いられています。それゆえ、神の言葉が聞かれると同時に、見られ、味われる時にのみ、『言葉』は、一切をおおう、神の自己顕現の象徴となります。ロゴス(言葉)の受肉という教えは、言葉が視覚と触覚の対象となったという逆理を含んでいます」(ティリッヒ)。つまりイエス・キリストがこられ、肉体をとり、わたしたちの対象となるまで、低く下ってこられ、わたしたちに触れ、見ることのできるものとなりました。その時、「主は霊です。主に霊のあるところに、自由があります。 わたしたちは皆、顔覆いを取り除かれて、主の栄光を、鏡に映すように見て、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられてゆきます」ということが起こるのです。それは主の霊[の働き]によることです。この見て、触れ、味わう言葉を、私たちは聖晩餐にもっています。
 「イエスは単に教えを提供するだけでなく、御霊を送り出します。単に約束だけでなく、与え、ただ罰するだけでなく、ゆるしを与えます。そのようにして主はわたしたちを、ご自身と同じ姿に変えてゆかれます」。「主は霊であります。それゆえ人は御霊を知ることなしに、キリストを知らないし、御霊を与えられることなしに、キリストと結びつくことはできません。他方キリストなしに、御霊を知ることも、与えられることもありません」。今日聖霊が、欠けています。確かに「聖霊、聖霊」とやたらにいう、聖霊主義の教会はあります。しかし、そこではキリストが欠けています。けれどもそれに比べて現代では、文字の信仰、文字の教会がいかに多いことでしょう。そこでは、聖霊もキリストも欠けています。「文字」は、わたしたちに対象として、客観的に読み、聞かせ、説くことができます。けれども何ら自分を賭けることをさせません。知性だけを満足させるだけで、感性や心を豊かにすることがありません。しかし、御霊はわたしを主体的に動かします。「御霊を所有しようと思うな。御霊が、あなたのすべてを所有したもう」という言葉があります。御霊がわたしの中に入るだけでなく、わたしが御霊の中に入るのです。ちょうど卵が親鳥の翼のもとに入るとき、卵の固い殻は破られて、自由になり、卵は雛となりさらに親鳥と同じように変えられてゆきます。そのようにわたしたちが御霊の中に入るとき、「栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられてゆきます」。
   今日、律法的信仰、知的信仰、観念的信仰が見られます。頭でっかちな信仰には、心に「覆い」がかかっていませんか。多くの家庭で、子供の問題で悩み、あるいは病気の老いた親をかかえ、また学生は受験や、将来のことで混乱していませんか。これまでの信仰ではやってゆけなくなっています。行き詰まり、狭くなり、自由でなくなります。「しかし、主に向く時、覆いは取り除かれます。主は霊です。主に霊のあるところに、自由があります」。 ある神学者は言っています。「わたしたちが自分のさまざまな答えによって、豊かに用意されているうちは、どうして聖霊が答えるでしょうか。わたしたちが自分で知っていると考えているよいもの、敬虔なもの、賢いものほど神をさえぎるものはありません。しかし、わたしたちがただ神に聞く用意のある時には、神は力をたずさえて来りたまいます。現代社会の危急と不法も、神にとっては、瑣末のことです、イエスは、わたしたちが深いところに立っていればいるほど、進んで助けてくださいます。わたしたちが罪人であればあるほど、豊かにゆるされます。イエスは労する者、重荷を負う者をみもとに招き、御霊を愚かな者、無知な者に注がれます。疲れた者を、いやされます、またほの暗いともしびを消すことをなさいません。わたしたちは人間歴史の夜の中に深く立っています。わたしたちは行く手を二、三歩のところを照らす光をもっています。しかし、それらの光は夜を昼に変える力はありません。わたしたちが生きるこの時代は十分困難な時代でありますが、わたしたちはこのような困難な時代に、いかに神に感謝することを学ぶでしょう。なぜなら、この困難な時代は、わたしたちの目を開いて、誰がわたしたちの生の中心にいますか、またこの中心にいますお方が、いつもわたしたちの中に歩み入ろうとしておられ、歩み入ることができるかを、わたしたちに示すのに役立つに違いないからであります。来りたまえ、造り主なる御霊よ、われらのもとに宿ってください !」

 

   
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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