2月6日(日)「「エレミヤの召命」 説教要旨
−エレミヤ書 1章1節〜19節−

 


   預言者の使命は何でしょうか。歴史の神が自然の神となり、悔い改めの信仰は自己満足の御利益信仰と変わります。その時、神は、民をいさめるために、さばきを行います。神の言葉は、さばきの声として、天から現れます。この神の声を語るのが、預言者の使命です。しかし、ここでは特殊な預言者という召命ですが、英語でcallingは、召命と共に、職業の意味もあります。それはルターに由来します。ルターは、召命という言葉を、それまで聖職にだけ使っていたものを、一般の職業にも拡大しました。ですから、ドイツ語のBeruf(召命)という言葉は、英語以上に、ふつうに職業の意味で使います。皆さんは、仕事を選ぶ時、何で決めますか、給料も大事な基準でしょう。また適性も大切です。けれども、適性は「自分から」、「自分について」ですが、召命は「向こうから(神の側から)」です。預言者はモーセも、イザヤもエレミヤも自分は、その務めにに適していない。他の人にしてくれと言います。職業でなくても、親が早く死んだ時、お姉さんが弟たちのために犠牲になり、働いて学費をかせいであげるのも、召しの意識があるからでしょう。それどころか、困難な人びとのために奉仕するボランティアの使命もあるでしょう。もっと驚くことは、車椅子の筋ジストロフィー兄弟が、「この病気は、神さまの賜物だと思います」と言ったのです。この間、その人のいる「ありのまま舎」に訪ねたのです。三笠宮ひげの宮様が、総裁で7回ガンの手術をした病人、それに理事長は97歳車椅子で、からだは不自由で、しかし、頭だけが確かな斎藤牧師、舎長は、今、酸素マスクをかけたままの、筋ジストロフィーの山田富也君、それがこの組織を動かしている。それこそ、自分からではないでしょう。誰も適性などないのどうして、責任ある地位につけるのでしょう。それは向こうから、神の側からです。そういうことを考えると、このエレミヤの召命は参考になります。
   主の言葉がわたしに臨んだ。「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」と主は言われた。 神のさばきは、歴史的政治的舞台の中で、イスラエルの滅び、捕囚として現れました。召しは、信仰者にとって決定的出来事です。自己満足自己完結の生には、召命はありません。
 1.そこでは神が優先しています。
 2. 信仰者は、自分の衝動で動かず、人の思想や考えで動きません。
 3. その時、弁解が先立つ。 「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」。 神が召される時、私たちの側では何もないような仕方で働かれます。モーセ、イザヤ、エリヤ皆そうです。それは神の恵みの選びです。キリスト者であることを、人間的理由に帰す人は力をもちません。

 

   
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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