1月23日(日)「キリストのからだなる教会」 説教要旨
 
−コロサイの信徒への手紙 1章24節〜29節−  

 

 

「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」。


 実に教会は、キリストがこの世において、たえずご自身を実現してゆく、「キリストのからだ」にほかなりません。キリストの救いは、このように具体的です。
しかし、具体的ですから、また病むこともあるでしょう。その時、多くの人は、批評家に徹します。

何と教会には、批評家、観察者、評論家が多いことでしょう。キリストは、わたしたちの罪を観察するために来られたのでしょうか。キリストは十字架の上で、人間の不信をなじり、批判したのでしょうか。
そうではありません。実にイエス・キリストは、十字架の上で、わたしたちの最もひどい罪をも、負ってくださったのです。わたしたちは教会の、お客さんではありません。実に観客でなく、俳優なのです。そこで演じられるのは、受難劇です。

南ドイツのオーベルアマルガウという村では、十年に一度村中総出で、キリスト受難劇をやります。今では世界的に有名になって、その切符を買うのが大変だそうです。しかし、本来この村の発想は、自分たちで素人の劇をやり、キリストのご苦難を偲ぼうとしたのです。人びとに見せる見世物としてではなく、キリストの苦しみを観客としていでなく、自分の課題として捕らえることにあったはずです。これは自分の体験と共に、宣教でもあったのです。
 

ただしかし、キリストはわたしたちのために十字架にかかり、救いを成就してくださった。そこで今度は、わたしたちの出番で、その十字架を宣べ伝える仕事は、人間の業というのではありません。救いの業の分業が成り立つわけではありません。
ここに「神が・・・知らせようとされた」とあります。しかも、その内容は「あなたがたの中にいますキリストであり、栄光の望みであります」。伝えるわたしたちの中に、すでにキリストがいらっしゃるのです。その方が、「栄光の望み」なのです。伝えるわたしたちが、「栄光の望み」なのではありません。
ですから、「わたしのうちに力強く働く、キリストの働きにより、苦闘しつつ努力しているのです」とあるのです。
わたしたちが「苦闘しつつ努力している」のは、「わたしのうちに力強く働く、キリストの働きによる」のです。努力もまたキリストによるとしたら、どうして、わたしたちは誇れるでしょうか。

しかし、反対に言えば、「キリストの働き」は、わたしたちの苦闘、努力を、用無しにするのではありません。圧倒的恵みを受ける時、完全に受け身になりますが、その「完全な受け身」は、同時に、「完全な捨て身」なのです。わたし(私心)がなければ、何もしないのではなく、わたし(私心)がないからこそ、何ものも恐れず、大胆に行動することができるのです。神がすべてということは、わたしたちはその前に「無」にすぎないことではありません。それは怠惰や無力を生むどころか、反対に、神はすべてだから、わたしたちの全力投球を生むのです。

 

   
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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