1月16日(日)「不正の中の正」 
−ルカによる福音書 18章1節〜8節−
 

 

 

このイエスのたとえ話は、決してただお祈りしていればよいという主旨ではありません。その背景には、権力に悩まされた弟子たちの困難、苦しみがにじみ出ているのです。そして神が最後に勝利することが約束されているのです。
ここには、もう一つの現実があります。


「ある町に神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいました」。

不正な為政者、それは当時も今も、どこにでもいるのです。むしろまじめな正しい為政者の方が、実際には珍しいくらいです。そしてわたしたちが祈ろうとしてひざまずく、その環境は、そのようなものではないでしょうか。「神を恐れない」のです。
そこでは信仰の話しは通じません。下手に熱心にすれば、笑われるか、軽蔑されるかです。またこの裁判官は、「人を人とも思わない」のです。人間らしいやさしい気持ちなど薬にしたくてもない、それどころか人権とか、人間尊重といった感覚はゼロに等しいのです。

しかし、この「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」というのは、決して具体的な国家権力といったものだけではありません。わたしたちのまわりには、もっと目に見えない「運命、宿命」といった力があります。それはまことに「神を恐れません、人を人とも思いません」。まるで大きなブルトーザのように、わたしたちの生活をメリメリと破壊してゆくのではないでしょうか。そして実際には、わたしたちの生活は、こうした運命とか宿命の力で支配されているのではないでしょうか。

ところがこの弱いやもめは、この勢力のところへ行って、正義の戦いを始めました。彼女は弱かったのです。しかし、彼女は、自分の弱さを見ません。ただ一つ正義の神がいます。そのお方が、世界を支配していなくてはならないとの信念であります。
わたしたちも、自分たちの勢力の弱さを見るなら、もうすでに、権力の虜になって、神を見ることをやめている不信仰の姿以外の何物でしょう。

わたしたちは、人数や能力の虜にならずに、神の虜になるべきです。パウロは
「わたしの力は弱いところに完全に現れる」(Uコリント一二・九)との、神の御声を聞いたのです。 
この純真な、まじめな熱心な要求は、聴き入れられませんでした。何度も何度も新しい要求は、また新しい拒否に報いられました。
この裁判官がついに聞き入れるのは、単なる理論や正義の感覚ではありません。理論だけで悪魔に対抗することはできません。この裁判官は、依然として、「わたしは、神を恐れないし、人を人とも思わないが」と言っています。つまり彼の本質は変わらないのです。
この悪い裁判官が急に、やもめの祈りを聞いて、その熱心さに涙を流して悔い改めたとは書いてありません。権力者の利己的動機は変わりません。
しかし、「このやもめは、わたしを煩わすので、彼女の裁判をしてやろう」と言い始めるのです。裁判官を正義の裁判官に変えることは人間の事ではありません。しかし、驚いたことに、この権力の利己主義を通しても、神の正義が実現して行くのです。権力は正義の理論で動きません。しかし、たえずぶつかって行く信仰の愚かな行為の繰り返し、ただそれのみによって、動かされるのであります。

 

   
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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