日本キリスト教団

   
2023.11.26
説教ダイジェスト
礼拝説教要約
「身に余る恵み」
申命記26章5-11章
 旧約の民(ユダヤ)の毎年行う三大祭(過越祭、刈り入れの祭り、取り入れ の祭り)は、小麦、大麦、果物の収穫の感謝の祭りでした。その祭儀で朗誦し たのが、今日の聖書の言葉、信仰の告白です。

  自分たちの民族の歩み(歴史)を振り返り、神の導きのお陰で今ここに生か されていると述べ、神が豊かな土地を与えてくださったので毎年の畑の実りが あると神に感謝をしています。畑の初物を前にして、神の導きに思いを向けて いるのです。

  収穫感謝というと、その多くは神様が畑の収穫、地の実りをくださったこと を感謝するものですが、旧約聖書では、それだけでなく、今ここに生かされて いることが神様の導きだということを感謝するのです。私達も収穫を与えてく ださる神様に感謝しますし、さらに、今ここに生きていることを神様の導きと 思い、そのような感謝をしたいと思います。

 米国の建国の由来ですが、清教徒(ピューリタン)がメイフラワー号に乗っ て米国東部に流れ着いて、そこでの最初の都市は食糧がなく多くの人が亡くな りましたが、しかし、次の年には収穫があり、それで生きていくことができる ようになりました。米国東部のプリマスで、最初の収穫感謝の礼拝がささげら れました。

  このことは、単に収穫物への感謝だけではなく、信仰の自由と自由に信仰生 活をする場所を求めていた清教徒たちの存在とその信仰を神様が認めたという こととして受け止められました。リンカーンによって、米国の祝日となってい ます。建国に至る神の導きを感謝するのです。今、ここに生かされていること を振り返るのです。

  「わたしの祖先は、滅びゆく一アラム人であり」と言います。旧約の民の最 初の人アブラハムは、今日のイラク、シリア辺りに住んでいたアラム人の一人 だっただろうと言われています。けれども、申命記が書かれた当時、アラム人 と言い続けるよりもヘブライ人とか、ユダヤ人と言う方が自然だったと言われ ます。

  また、アラム人の国家がイスラエルの北方に起こり、良くも悪くも関わりを 持たねばなりませんでした。ある時代には「敵国」アラムだったのです。それ なのに、どうして「わたしの祖先は、一アラム人」と言ったのでしょうか。

  このことの説明として、旧約学者の池田裕先生は、ユダヤ人はいつもどこで も神の目に見られていると思っていて、自分を誇らず飾らず、裸の自分をこそ 本当の自分だと思っているからだと言われます。申命記の編纂がなされた時代、 アブラハムから千年、数百年もたった時に、ユダヤ人は生きる力や自信を身に つけるようになったのですが、そういうユダヤ人には、自分たちの祖先はアラ ム人だったという方が本当のことを見逃さないでいられる、信仰的なことだと 思ったからだと言われます。

 アラム人だろうがユダヤ人だろうが、そもそも人間とはいったい何者なのか。 収穫の初物を神に献げるたびにこの信仰の告白の言葉を朗唱して、神の恵みに よって生かされている一人の人間であることを覚えるのです。心からの感謝を ささげるのです。

 愛隣こども園
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