日本キリスト教団

   
2023.02.12
説教ダイジェスト
礼拝説教要約
「愛から始まる」
ルカによる福音書5章
17-26節
  イエス様はある家の中におられて、そこに集まってきた人々に語り掛けられ、 さらに病気の人を癒しておられました。さらにもう一人、病気の人が連れてこ られました。イエス様を取り囲んでいる大勢の人たちが道を塞いでいたので、 病人の床を担いで運んできた友人たちはその家の屋根の上に登って、屋根に大 きな穴をあけて、この病人を吊り下ろしました。天井から病人を吊り下ろしま した。

 イエス様は、その人たちの思いをしっかりと受け止めてくださいました。病 人に目を向けて、その病いを癒してくださいました。病気の人を必死な思いで 運んだ人たちの愛が、とりなす人たちの愛が、イエス様の慈しみの心を大きく 膨らませました。同じように、私たちが誰かを愛してとりなす思い、とりなす 祈りを、イエス様はしっかりと受け止めてくださいます。

  病人をいやすために、イエス様は「人よ、あなたの罪は赦された」と言われ たのですが、その場に居合わせた律法学者たちは、人の罪を赦すことができる のは神様だけなのだから、神を冒涜しているのだというのです。しかし、イエ ス様に「起き上がりなさい」と言われて、病人が立ち上がりました。このこと は、その人の罪が赦されたということを証明しているように見えたことでしょ う。併せて、イエス様が罪を赦す方だということも示すことができたでしょう。

  当時の人々は、人は病気になるのは、何か良くないことをしたからだ、神様 に背いたり罪を犯したからだと思っていました。では、イエス様は、当時の多 くの人々と同じように、人が病気になるのはその人が罪を犯したからだ、病気 になるのはその人のせいだと思っておられたのでしょうか。私はそうは思いま せん。病気の人は悪い霊に苦しめられていると思っておらたようですが、人が 罪を犯したからだと思っていたとは思いません。百歩譲って、私たちが罪を犯 すと神様は私たちを病気にして、罪に対する罰だと言わんばかりに私たちを苦 しめるのでしょうか。そうではないと思います。
 
 ではどうして、イエス様は病気の人を癒すために「あなたの罪は赦された」 と言われたのか。それは、目の前にいる病気の人が自分の罪深さを強く感じ、 怯え切っていたからでしょう。そして、イエス様が病気の人の思いを汲み取ら れ、世の人々の間違った常識に合わせて腰を低くしてへりくだってくださって いるのです。世の人が当たり前だと思っていること、今更正しいことを言って も訂正できないような世の多くの人の常識や誤解を一旦受け入れて、しかし、 そのことによって一人の病気の人が助かるようになさったのだと思います。

  言ってみれば、方便です。嘘も方便と言います。人が助かるためには、いつ も正しいことを言っていられないのです。100%の嘘ではありません。だま しているのでもないのです。たくさんの愛情がこもった方便です。

 イエス様は、この世の人々の罪や過ち、誤解や偏見、迷信や因習、そういう ものは人々が作り出した間違った考え、常識ですが、そういうものの中に身を 置かれていました。そのような中に、そのような人々の一人になったかのよう に振舞われて、人々にへりくだられているのです。たとえ間違っていても、世 の常識の中の一人になっているのです。これはイエス様の愛から出たことです し、罪が赦されたと言われた人は、そのことを信じ、立ち上がれなかったのに 立ち上がれるようになったのです。

  パウロは、コロサイの信徒への手紙3章で「愛はすべてを完成させる絆です」 と言っています。今日の場面では、律法学者たちのイエス様に対する悪意とい うもがこの場面をかき乱しましたが、しかし、病気の人の友人たちのもつ人を 愛する愛で始まり、イエス様の私たちに向けられている愛によって、すべてが 導かれ、一つの救いの出来事になったのです。

  イエス様は、病気の人の友人たちの思いをしっかりと受け止めてくださいま した。人を愛する心によってはじめられたことが、さらに大きな愛に導かれて いきました。私達が、私たちの周りの誰かが、人を愛する心を表しているなら、 その愛を受け止める方がいるし、さらに大きな愛の中に招かれます。イエス様 が共におられるということは、とても嬉しいことだと思います。私達が、人を 愛して生きること、人と共に生きることがとても嬉しいことに思えてきます。


 愛隣こども園
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