日本キリスト教団

2022.12.04
説教ダイジェスト
礼拝説教要約
「「昔からの約束」
ルカによる福音書4章
16-21節
  イエス様がユダヤの会堂で預言者イザヤの言葉を朗読され、その場にいた人 たちに「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と 言われました。つまり、神様が遣わされた救い主はイエス様、そのイエス様が ここにいるのだから、今日、預言の言葉、救いの言葉は実現したのです。イエ ス様が、私が救い主だと人々に対して初めて表明されました。

  この時イエス様が朗読したイザヤ書61章には、救い主がどのような人なの かが予告されています。それによって、福音書に記されているようなイエス様 の姿を想い起します。苦しむ人、悲しむ人を慰め、友のない人の友になり、病 気を癒されました。さらには、イエス様はご自分の命をも捧げてくださり、十 字架の贖い、救いをもたらしてくださいました。

  今日は、イザヤ書の言葉が語られた時に、どのような人々に向けて語られた 言葉なのかを振り返りたいと思います。旧約聖書のイザヤ書61章には「1 主 はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/ 貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ 人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。」とあります。

  救い主が遣わされたのは、「貧しい人に良い知らせを告げるため」、貧しい人 は、経済的に貧しいという意味よりも心の持ち方として貧しく、小さく縮こま っているという意味です。旧約聖書では、貧しい人を神様が顧みてくださると 言われています。

  イザヤ61章に書かれているように、貧しい人とは打ち砕かれた心でいる人 です。人生の苦しみや悲しみを味あわされ、人々から軽蔑され、しかし、それ をじっと耐えている人ということです。苦しみ悲しみを誰にも話せないままに、 神様に向かって「いったいこの私は、どうしたらいいのですか」と心の中で叫 んでいます。絶望的な気持ちでいるのです。

  預言者イザヤの目の前には、打ち砕かれた心を抱えている人たちが大勢いま した。遠くバビロニアの地からエルサレムに戻ってきたのに、現実は甘くなか った。この人たちがいない間に、エルサレムは次の新しい住人が暮らしていた 2 のです。そこに、バビロンから帰ってきた人たちが現れたのです。私たちが住 んでいた土地だと言い張っても、誰もやすやすとは譲ってくれるはずはありま せん。生活に必要な物資もほとんどなかったことでしょう。今日、世界中に溢 れている難民の人々の生活、難民キャンプのあり様を思い出します。

  神様を礼拝する場所、神殿を再建しようということも多くの妨害行為に遭い、 とても困難な仕事だということが分かりました。希望を抱いて帰って来たのに、 自分たちの居場所もままならない。希望は失望に変わりました。夢や希望は、 みごとに打ち砕かれたのです。

  新型コロナ感染症が広がり、この2年以上の日々、私たちは様々な制限や自 粛を余儀なくされてきました。自由に行動することが許されないこともありま した。せっかく入学した学校で、友達にも会えないままで過ごした人たちがい ます。希望の職業に就こうと願っても、十分な準備ができなかった人もいるで しょう。会社に面接に行くことすら制限された人たちがたくさんいます。

  今年もまたクリスマスを迎えるのですが、新しい年を迎えるのですが、若い 人たちの心の中は、多くの人々の心の中に、どんな思いがあるのだろうかと案 じます。神様の励ましがありますように祈ります。

  私たちの人生の中に「こんなはずではなかった」と思うことがあります。前 に歩み出す力をなくしてしまうようなこともあるでしょう。前に進めない、だ からといって、後ろにも戻れない。どうにもならない状況の中に立ち尽くして、 自分自身の存在意義を自ら問いかけるような気持ちになることもあるかもしれ ません。そんな時、イエス様が言われているように、心を小さくして縮こまっ ている人々に、打ち砕かれた人々に、イエス様が共におられて、今日救いが実 現した、救いが来たのだということを思い出したいと思います。

  世の人々から見捨てられていた荒野で野宿をする羊飼いに、天使は「今日、 あなたがたのために救い主がお生まれになった」と知らせました。

  イザヤが予告していたように、打ち砕かれた人々を慰め、力づけ、救いへと 導いてくださる方、イエス様という救い主が与えられたことを、私たちの生き る希望としていきたいと思います。



   
 愛隣こども園
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