日本キリスト教団

2022.05.08 説教ダイジェスト
礼拝説教要約
「イエスのように」
ヨハネによる福音書13章31-35節
  イエス様が弟子たちに「新しい掟を与える」と言われ、その掟とは「互いに 愛し合う」ということです。「掟」というのは、何かの集団の一人であり続け るために、自分が自分であり続けるために守るものです。

  この箇所は、イエスを裏切ったイスカリオテのユダが、裏切り行為をなすた めにその場を去ったという場面のすぐ後です。こういうユダのことを思って、 イエス様は弟子たちに新しい掟を示されたのです。掟を守って、イエスの弟子 だということを自覚していくように、ユダのように自分自身を見失わないよう に、互いに愛し合いなさいと言うのです。イエスを裏切ったユダを反面教師と し、イエス様の掟を心にとめて、弟子同士が互いに心をかけ合い、一致を保つ ように言われているのです。

   例えば、忍者は「掟」を守ります。そして、忍者の心得というのがあります。 心得を実践し、人としての素養を養い、忍者だというわきまえを保つようにし ていたのだと思います。忍者が活躍した時代は、戦国武装達が知略を張り巡ら し、だましだまされ、権謀術数を凝らしていた時代です。そういう混とんとし た時代の中で、忍者という難しい仕事をしたのです。そして、忍者たちは、も しものことがあって、忍者であることを貫けなくなったなら、主君を捨ててで も忍者であることを貫きます。忍者の忠義とは、主君に対する忠義ではなく、 忍者の仲間に対する忠義です。

   こういうことに照らしていうなら、イエスを裏切ったイスカリオテのユダは、 最後までイエスの弟子であることを貫き通さなかった。イエスを売り渡せば銀 貨30枚をやるぞと唆すユダヤの指導者たちに、自分を売り渡してしまったの です。ユダは本当の自分の主君とは誰か、最後まで従うべきは誰か、自分の身 を置くべきところはどこなのか、自分が貫くべきは何なのかを見誤ったと思い ます。振り返って、わたしたちが生きている中に、イエスの弟子であることを 邪魔するものがありますから、イエスを愛する強い思いを持っているからこそ、 掟を守り続けることができるのだと思います。

  そして、イエスの掟とは、他でもない「互いに愛し合う」ことだと言われま す。イエスは言われます。これが肝心なことです。「わたしがあなたがたを愛 したように」と。

  イエス様のように命を投げ出すほど愛し合えと言うのでしょうか。そうでは ありません。互いに愛し合う時、私たちは、これがイエスのしたことだと思い、 イエスの願いをなしていると思い、それでイエスに励まされ、互いに愛し合う 力をいただくのです。イエスの弟子、私たちは、イエスと共に人を愛するので す。罪人をも愛し通されたイエスが、互いに愛し合う力をくださり、イエスの 弟子であり続けるようにしてくださるのです。

  人への愛を現す時、それは人が助けを求めている時です。往々にして人々の 理解を得られないような事態になっていたりします。そういう中で愛を現す私 たちを、イエス様が励ましてくれることを信じます。

   互いに愛し合いイエスの弟子であり続けると、どうなるのでしょうか。33 節で言われているように、イエスのもとに招かれます。イエスと同じようにす る私たち、互いに愛し合う私たちのことを、イエス様は、私の弟子だ、仲間だ と言ってくださって、イエス様がみもとに招いてくださいます。

  イエス様はイスカリオテが裏切ることを始めたと察されて、もう二度とユダ のような人は出さないという決意をもって、イエスの弟子たちの交わりが、さ らに固くされ、祝福豊かにされるように願っておられたと思います。弟子たち が自分のことだけでなくお互いのことを気遣い合う、諭し合い、とりなし合い、 共に主の弟子だという思いを固くしていく。主のもとにある兄弟姉妹が、共に 主の仲間だという思いを与えられていくようにと願っておられたのです。

  「互いに愛し合いなさい」と言われる方がおられます。ただ口先で言っただ けではなく、私たちのために十字架にかかってくださった方がいるのです。

   Ⅰヨハネ 4:12 「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛 し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたした ちの内で全うされているのです。

   
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