日本キリスト教団

2022.04.24 説教ダイジェスト
礼拝説教要約
「神の力によって」
コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章7-15節
  パウロは、7節「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。」 と、自分には大切な「宝」があると言っています。それは、キリストを信じる 信仰、キリストの福音を信じていることです。イエスのよみがえりの力を受け ていることです。

  先週はイースターでした。主イエスのよみがえりに、主イエスを信じる者た ちも与ります。弱くされたようで、起き上がれないようでいて、しかし、よみ がえりの力によって立ち上がる。「8 わたしたちは、四方から苦しめられても行 き詰まらず、途方に暮れても失望せず、・・・」

 パウロは伝道をして旅をしましたが、福音を理解しない人々に憎まれ、苦し いことを幾度も経験しました。11章23節以下では、迫害の数々を詳しく数 え上げています。「24 ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。 25 鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが 三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。・・・」

  そして、今日の箇所では、苦しみを耐えることができたのは、自分の強さに よるのではなく、神の力によって強くされたからだと言っています。7節「わ たしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が 神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるため に。」12章では、主イエスが共に歩んでくださるのだから、この身に神の力 が現わされるのだから、自分自身の弱さを誇るとも言っています。

  私たちもパウロの言うように、神様からこの「宝」を与えられています。も ちろん、私たちは弱い者ですから、苦しめられたらへこたれます、倒れること もあります。けれど、神様イエス様を思い出して、もう一歩だけ踏み出してみ ようと思う気持ちになることがあります。パウロは、そういう気持ちを繰り返 し抱き直しながら、根気よく歩み続けていたのではないかと思います。

  新見南吉は、大正時代の子供向けの童話を書いた作家です。「でんでんむし 2 の悲しみ」という童話があります。一匹のでんでんむしが、自分の背負う殻の 中には悲しみばかり詰まっていると嘆きますが、ついには自分は自分の悲しみ を背負って行こうと思うようになったという話です。でんでんむしのように私 たちは、人生にあってたくさんの悲しいことを経験し、悲しみをたくさん背負 っています。しかし、どれもが「私が背負う悲しみ」ではないでしょうか。

 パウロは、自分が苦労してきたことを手紙に書きますが、これは私が背負う べき苦しみであり、私が背負うように神様が計らっておられ、神様が一緒に背 負ってくださっているのだと思っていたのだと思います。主の復活の命に励ま され、神様の目には素晴らしい人生の歩みをさせていただいているのだと思っ ていたと思います。ガラテヤ6:5「めいめいが、自分の重荷を担うべきで す。」神様は決して悪いことはなさず、必ず善い人生を与えてくださる。主の 復活を思い出して、そのような気持ちになるのだと思います。

  私たちの「宝」とは、何でしょうか。私たちがこの世を歩む上で、いろんな ものが私たちを守ったり支えたりします。生まれた時に偶然与えられた血筋、 地位や境遇、財産、たくさんの知識や経験、他の人たちが容易には手に入れら れないような物事。いろいろあります。私たちはいろんなものによって守られ 支えられて生きています。こういう宝物は尊く大切なものです。持っているの なら、それを用い生かしていくものです。

 私たちの「宝」は、それだけではありません。パウロが言う「宝」とは、私 たち神を信じる一人ひとりが、いつも、どこでも、どんなときでも、「宝」で あるもののことです。それは、主のよみがえりの力です。信じれば与えられて いるのです。この世の歩みを豊かにし、神のみもとに行ってもいよいよ豊かに 与えられるのです。

  どんなにたくさんの宝物があっても、この世を歩む私たちに、苦しみ悲しみ は途切れることはありません。苦しみ悲しみが、どれほど私たちを混乱させる ことでしょうか。けれど、神様の救いを素晴らしいと思い、主の復活の力に励 まされ支えられて歩むことができる。神様のみもとに望みを抱くことができる。 このことを思い返す時、私たちは主を信じて幸いであると深く思わされます。

   
 愛隣こども園
宮城県仙台市青葉区五橋1-6-15
〒980-0022 ℡:022-222-3242