日本キリスト教団

2022.04.03 説教ダイジェスト
礼拝説教要約
「イエスの栄光」
マルコによる福音書10章35-45節
  誰も苦労はしたくないもの。楽をしたい。だから、苦労する人を私は尊敬し ます。世の中には、多くの苦労を重ね、そのおかげで成功を遂げることができ たという人がいます。さらに、私がもっと尊敬する人は、自分のためではなく、 人のために苦労する人。私たちの背負う苦労は、自分のための苦労があり、人 のための苦労があります。

 使徒パウロは、フィリピの信徒への手紙2章で、神の御子であるキリストが 私たちに仕えてくださった、へりくだられた、ご自分を無になさったと記して います。キリストはへりくだり、自分を無にしたから、すべての名にまさる名 を得た、神の栄光に輝くのです。人々の目になんと無残な姿だろう、惨めな姿 だろうと思われるような十字架の死を遂げられたから、神様がイエス様を引き 上げられた。そういう栄光です。イエスがご自分を無とされたので、私たちに 救いがあります。

  イエスの弟子ゼベダイの子ヤコブとヨハネが、イエス様が栄光をお受けにな る時に、私たちを取り立てて、イエスの右に左に座らせてほしいと頼みました。 それを聞いてイエス様は、そのためには、「このわたしが飲む杯を飲み、この わたしが受ける洗礼を受けることができるか。」と問われます。すると、二人 は「できます」と答えたのです。

  イエス様は「あなたがたは、自分が何を願っているのかわかっていない」と 指摘されます。「何を願っているのか」、これは言い換えると、イエス様が栄光 をお受けになる時が来る、その栄光とはどういう栄光なのかがわかっていない ということです。

  弟子たちは、イエス様が王様になって、人の上に立って、人々からほめたた えられるようになる時が来る。そのときのために、自分のために、苦労しまし ょうというのです。「できます」と答えるのです。同じ苦労するというのでも、 へりくだるとか、仕えるとか、僕になるというのでも、イエス様と弟子たちの 心の中にある思いは、まったく反対方向を向いているのです。  
 
  それで、イエス様は、43節「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕 える者になり、44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」 と言われるのです。苦労は苦労でも、自分には何も残らない、人のためになす 苦労を、神様は必ず報いてくださると告げておられるのです。

  私が日々の生活の中で、人に仕えるということを思うようになる時はどうい うことだろうかと振り返ってみました。日々の生活の中で、あることが抜き差 しならないことになってくる。そのことを解決するにはどうすべきかと思案す る。ああすればこうすればと思い巡らす中で、ここは少し私の自我を抑えるべ きではないかとか、あの人に譲った方が良いのかもとか、広い心で人を 赦し た方が良いのではないか、事態の解決ためには、自分を控えようと思うように なる。こういう時が、私が人に仕えるかどうかが問われている時です。あの道 を行くよりもこの道を行こう。この道を行くと、自分には何も残らない、得は しない。でも、それでいいと思うのです。

  ですから、私は自分を控えるなら、その先にどういうことがあるかというこ とを見晴らして、いろいろ考えるのです。何かのために、何かもっと良いこと のために人に仕えることをする、自分を控えるようになるものです。私たちは どの人も、誰かの役に立ちたいと思い、平和に過ごしたいと思っていると思い ます。そして、神を尊ぶ私たちは、神様のために役に立ちたいと思います。

  石を積む人の話があります。一人目の石工に、「あなたは何をしているんで すか」と問えば、「石を積んでいるのです」という返事。二人目の石工に「あ なたは何をしているのですか」と問うと、「石を積んで壁を作っているのです。」 と答える。さらに、三人目に同じことを問えば、「石を積んで壁を作り、立派 な大聖堂を作っているのです」と答える。三人目の人が、何のためなのかを知 っている人です。一番やりがいを感じている人です。

  これは、信仰者であれば、仕えることが、いつの日にか神様のみ栄を現すこ とになると、神様のお計らいを、明日を信じる気持ちを持つ人なのではないで しょうか。

   
 愛隣こども園
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