日本キリスト教団

2022.03.27 説教ダイジェスト
礼拝説教要約
「仮小屋を建てる」
マルコによる福音書9章2-10節
  イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて、ある高い山に登られました。す ると、イエスの姿は「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕にも 及ばぬほど白くなった」。イエス様は神の御子ですから、聖なる神の光を発し て輝いたというのです。

  そこに旧約の偉人たち、モーセとエリヤが現れました。イエス様が十字架に かかることが神様のみ心であると確かめ合ったのです。イエス様は、ご自身が 十字架にかかることが神の御心であり、自分のなすべきことだと確かめられま した。イエス様の身も心も十字架へと向けられています。

  しかし、その一方で、弟子たちは、そのことを知らなかった。この箇所でも、 ペトロは、イエス様のことをわかっていなかったので、的外れな、頓珍漢なこ とをしてしまいます。モーセとエリヤとイエス様のために「仮小屋を建てまし ょう」と言い出したのです。

  神の光に輝く人を見れば、私たちはだれでも、驚くと思います。その場に居 合わせたペトロは、神の光、輝きをずっと見ていたいと思ったのです。山の下 に広がる世の煩いを忘れ、穢れを忘れて、高い山の上で、神様の聖なる輝きを ずっと見ていたかったのです。この世の苦労や悲しみも忘れて、自分の罪過ち も忘れて、神様の輝きの美しさにうっとりしていたかったのです。私たちも 時々、このペトロのような思いになることがあるのではないでしょうか。この 世に生きることに疲れてしまう時がないでしょうか。人と人との関わりを煩わ しく思うことはないでしょうか。

  イエス様は山の上で神の栄光に輝きますが、それから山を下りて、この世の 中に戻られます。そして、さらに、この世で一番低いところにまで下って行か れます。高い山の上で神様の光に輝いた方は、この世の最も低いところに下ら れ、貧しい人、罪人と見下される人の友となられ、そしてユダヤの指導者たちに捨てられ追い出され、十字架にかかります。山の上でモーセが、エリヤが、 そのようになせと言ったのです。神様はイエス様のことを「これは私の愛する 子。これに聞け。」と言われました。イエス様のなされることが神様のみ心、 神の救いだと言われています。

  ペトロは、山の上で、美しい神秘的なイエスの姿に驚いて、イエスのために 「仮小屋を建てましょう」と言い出しました。けれど、このイエス様には、高 い山の上に仮小屋を建てることはふさわしくないし、必要でもありません。イ エス様にふさわしいのは、父母と一緒に、この世に初めて宿った場所、ベツレ ヘムの馬小屋こそふさわしいです。イエスには、仮小屋ではなく、馬小屋こそ ふさわしいです。

  クリスマスに、クレッシュと呼びますが、馬小屋の様子を現す人形を並べた りします。小さな小屋の中に、飼い葉桶に眠るイエス様、父と母、羊飼いや博 士たち。イエス様のお生まれになった馬小屋、それはとても美しい場所です。 実際の馬小屋がどんなに汚れたみすぼらしい場所だったとしても、そこには私 たちの救いがあり、神の愛が輝き、希望に輝いています。

  十字架にかかったイエス様は、よみがえりました。よみがえられたイエス様 は、私たちと共におられます。イエス様はすべての人のために、この世に生き て働いておられます。高い山の上に仮小屋をたてて、そこに閉じ込められるよ うな方ではありません。

  もしかすると私たちは、自分の思いの及ぶところに神様、イエス様を閉じ込 めようとするかもしれません。長い人生の中には、いろんなしんどいことがあ り、もうダメだ、もうこれで終わりだ、神様にも手出しができないと観念する ことがありかもしれません。けれど、大丈夫。よみがえられたイエス様が共に おられます。イエス様は、人が造るような小さな仮小屋には閉じ込められたり はしません。いつも、いつまでも、よみがえりの命をもって、聖霊の風となっ て、私たちの思いを超えて自由に私たちを救いへと導いてくださいます。

   
 愛隣こども園
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