日本キリスト教団

2022.03.20 説教ダイジェスト
礼拝説教要約
「受難の予告」
マルコによる福音書8章27-33節
  イエス様は、弟子たちに「わたしを何者だというのか」と問いかけられまし た。ペトロが「あなたはメシア(救い主)です」と答えました。それから、イ エス様は「自分のことを誰にも話さないように」と弟子たちを戒められました。 さらに、イエス様は、人の子は必ず多くの苦しみを受けるのだと言われます。 ペトロは驚き、イエスをいさめ始めました。そのペトロをイエスが叱りました。

  イエスとペトロのしたことは、「戒める」「いさめる」「叱る」。日本語では訳 し分けられていますが、元のギリシャ語では同じ言葉エピティマオーです。 「怒鳴りつける、叱責する、厳しく戒める」という意味です。

  イエスが、弟子たちに、まだ世の人には言うなと口止めする。戒める。怒鳴 りつけるが如くに、弟子たちに覆いかぶさるが如くにきつく言われたのです。 ペトロは、イエスに向かっていさめた。怒鳴りつけた。そして、今度はイエス が、ペトロを叱りました。怒鳴りつけました。満身の思いを込めて、私こそわ かっているのだという強い気持ちを込めて、お互いに怒鳴り合っているのです。

  ペトロは、イエスがメシアであると真実を答えましたが、イエスの思いはそ こに留まりません。さらにもっと聞きたいことがあります。目の前にいる私が 救い主であるというこの事実に対して、あなたはどのような態度をとるつもり なのか。のっぴ切らないこの一つのことをいい加減にするなら、救いにあずか ることができなくなるかもしれず、取り返しのつかないことになるかもしない。 それで、強い思いが沸き上がり、言い合いになるのです。

  イエスは今、この箇所を読む私たちにも、同じように語り掛けておられます。 「あなたは私を何者というのか、メシアだと言うなら、それはあなた自身にと って、それはどういうことなのか。このこと一つを、あなたが救われるかどう かということとして、あなたの生き死にの問題として考えてみるべきではない のか」と。イエス様の私たちに対する真剣な思い、心の底から私たちのことを 思う慈しみ、その激しさを受け止めたいと思います。

  この当時、ユダヤの人々は、メシアとは、強い王様のことでした。敵を武力 で追い払い、ユダヤの国を平和にしてくれる王様が現れるのを待ち続けていま した。ペトロは、イエスとはどういう救い主なのか理解していませんでした。 それで、イエス様が苦しむとか、十字架にかかるということを聞くと、ペトロ はそんなことはないと思ってしまったのです。

  この後、イエス様は心の底から人々の救い、平和を願って、「自分の十字架 を背負って私に従いなさい」と言われます。イエス様が救い主であるというこ とを本当に理解し信じるなら、尊ぶなら、イエスがなしたようにそれぞれの、 世の人々の十字架、重荷を背負って従おうとするのではないですかと。

  昔から伝わるクリストフェロスの話があります。オフェロという、とても力 の強い大男がいた。世界で一番強い人の家来になろうと思い、王様の家来にな った。さらに、悪魔の家来になった。しかし、悪魔は教会の十字架を見て「キ リストが怖いのだ、世界で一番強い方だ」と言う。それで、キリストを探すこ とにして、ある川の渡し守になった。ある晩、大雨になり、小さな男の子が、 この川を渡らせてくれという。その子を背負って濁流の中へ。だんだん重たく なり、必死になって向こう岸にたどり着く。オフェロが「今まで、あなたのよ うに重い人を背負ったことはない。」と言うと、「そうでしょう。私は世界のす べての罪と苦しみを背負っているのですから。わたしはキリストです。」とそ の子は答えた。オフェロは、キリストの僕になり信仰と奉仕の生涯を送った。

 世界中の人々の罪と苦しみは重かった、言う。どういうことか。世の人々は、 罪や苦しみから解き放たれる時を待っている。オフェロは、世界中の人の、重 たい罪と苦しみを背負うこと、つまり、人々の救いや平和に役立つことのため に生涯を捧げるようになりました。一番強い人の家来になりたい、自慢の怪力 を発揮したい。そのように願う人が、神様と隣人に仕える人になりました。オ フェロは、クリストフェロス、キリストを背負う人、キリストの僕になりまし た。世界で一番必要とされている人の僕となりました。

   
 愛隣こども園
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