日本キリスト教団

2021.10.03 説教ダイジェスト
礼拝説教要約 「賛美の歌をうたって」
マタイによる福音書26章26-30節
 世界聖餐日に与えられた聖書の言葉は、マタイ福音書の最後の晩餐、主の晩餐 の場面です。これは、イエスと弟子たちがユダヤの「過越の祭の食事」をしてい る場面です。出エジプトの救いを感謝する食事です。犠牲の子羊の肉を食べ、苦 菜やパンを食べ、ぶどう酒を戴きます。

イエスは、パンを「わたしのからだ」と示され、ぶどう酒を「わたしの血」と 示されます。ご自身を犠牲の子羊に重ねておられます。「父の国で・・・飲むそ の日まで」ぶどう酒を口にすることはないと言われるのは、十字架の犠牲となる その日が切迫していることを自覚しておられるからです。 そして、過越の食事には飲み食いする順序があり、その最後に全員で賛美を歌 いました。30節「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。」 とは、そのことです。

私たちが神様を賛美するのは、多くの場合、何か自分にとって良いことがあっ た時ではないでしょうか。しかし、この時のイエスの身になれば、イエスが十字 架を目前にして賛美をしたということは、悲しい時に喜べと言われているよう なことではなかったかと思わされます。このような時にも神を賛美するイエス は、心底神を尊び愛しているのです。神の救いを感謝し、我が身に起こる十字架 を御心だと受け入れているのです。

神様を讃えるイエスは、ご自身が十字架に無となることを、神様が用いてくだ さることを、いよいよ信じようとなさっていたのでしょう。イエスの賛美する姿 は、神にしっかりと付き従う人の姿です。イエスも私たちも、神様の大きさを感 じて神様を讃える歌を歌うなら、さらに一層、神様の大きさを感じるようになる のです。

イエスの母マリヤは、イエスの誕生前に、「わたしの魂は主をあがめ、/わた しの霊は救い主である神を喜びたたえます。」(ルカ福音書1:47)と歌いまし た。「あがめる」とは、自分を小さくして、神様を大きくするという意味です。 神様を讃え大きくすれば、それだけ私たちの重荷悲しみも小さく思えるように なるのではないでしょうか。

イエスは、賛美の後、オリーブ山(ゲッセマネの園)へ行かれました。過越の 食事をするイエスが神の子の姿だったと言うならば、一方でゲッセマネでは人 間の思いを表しつつ、血の汗を流されてもだえて祈られます。死を恐れない人が いるでしょうか。とても人間らしい姿です。そして、神様からの使命を逃げない で真正面から受け止める人間の尊い姿だと思います。それでも、イエスは十字架 にかかりました。過越の食事で賛美するイエスが、人間の思いに打ち勝たれまし た。世の人を愛するイエスの愛が勝りました。

私たちは、この過越の食事、主の晩餐、つまり聖餐式を繰り返し守り祝います。 その度に、このイエスが私たちに救いをもたらしてくださったことを想い出し たいと思います。私たちの賛美は、自分中心なものかもしれませんし、神の子の 賛美には到底及ばないでしょう。ご自身を無にして神に従い、神を讃える神の御 子イエスのお陰で、私達の救いがあり、神を讃える賛美があると思わされます。

ユダヤの人々が過越の食事の席で歌う賛美の歌は、ハレル唱(ハレルヤ詩編) と呼ばれる詩編です。私たちの読む旧約聖書の中の「詩編113-118編」の ことです。今日の箇所での賛美の歌、イエスと弟子たちが過越の食事の最後に歌 ったのは、後半の「115―118編」です。

「10 わたしは信じる/「激しい苦しみに襲われている」と言うときも 11 不 安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも。12 主はわたしに報いてくださった。 わたしはどのように答えようか。」(116:10-12)

「7 主はわたしの味方、助けとなって/わたしを憎む者らを支配させてくださ る。8 人間に頼らず、主を避けどころとしよう。・・・・13 激しく攻められて倒 れそうになったわたしを/主は助けてくださった。14 主はわたしの砦、わたし の歌。主はわたしの救いとなってくださった。・・・主の慈しみに生きる人の死 は主の目に価高い。」(118:7-15)

「22 家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。23 これは主の御業/ わたしたちの目には驚くべきこと。24 今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、 喜び躍ろう。」(118:22-24)

私たち人間の思いを越える神の計らいがあります。出エジプトの奇跡的な脱 出劇がありました。そして、イエスは、十字架から復活へとたどられました
   
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