日本キリスト教団

2021.07.18 説教ダイジェスト
礼拝説教要約 「寄る辺なき身にも」
創世記21章9-21節
 アブラハムの妻はサラ、さらにはまだ子供がいなかった。それで、サラは女奴 隷ハガイに子を産ませて、子孫がいないという家族の危機を乗り越えようとし た。それで、ハガルにイシュマエルが生まれた。

  しかし、その後サラに息子イサクが生まれると、ハガイとイシュマエルはサラ に疎んじられるようになった。ハガルと息子イシュマエルは家を出され、荒れ野 で死にそうになる。しかし、神はこの二人を見捨てなかった。神はハガルの目を 開かれた。ハガルは悲しみに心が覆われて見えていなかったのか、目が開かれる と井戸があることに気がつき救われた。

  神は寄る辺ない二人を顧みていた。イシュマエルとは、「神は見ている、顧み る」という意味の名前。イシュマエルは、アラブ人の祖先だとされる。つまり、 異邦人だが、神は顧みておられる。

  これは悲しい家族の話ではなく、寄る辺ない人、居場所のない人、助けを求め ることができない人、守られていない人を、神が顧みていることを告げている。 今日の社会に寄る辺ない人たちがいる。ホームレス、コロナの規制の中で困窮す る人たち、事情があって家を出ざるを得ない人たち。この人たちに神の顧みがあ ると信じ、神の慈しみが示されるようとりなし祈りたい。

 族長アブラハムはイサクを献げよと命じられたが、間一髪救われ、「主の山に 備えあり」と知った(22章)。族長ヤコブは兄の憎しみを逃れてヤボクの渡し で天使と格闘し、自分が神の世界にいることを知った(28章)。族長ヨセフは エジプトに売られるが、飢餓の中に困窮する兄たちとエジプトで奇しくも再会 することができ、慈しみ深い神の計らい、摂理を知った(45章)。そして、ハ ガルも同様に、荒れ野の中で死にそうになり苦しむが神によって目を開かれ、井 戸を見、神の顧み、慈しみを見た。苦しみの経験を経て、ハガルもイシュマエル も、神に対する思いが深められたことだろう。神は私を守っておられる。それま で知らなかった新しい世界にいることを知っただろう。

  人生の通過儀礼ということがある。意図的な苦しみを抜け出すと一人前に認 められる。しかし、今日の社会には通過儀礼がないという。いわゆる文明国では、 法律や人権が尊重され、誰も苦しまないように配慮され、人が苦しむことは避け るべきとされる。こういう社会の中では、日常生活の中の一つ一つの苦しみの意 味を問うこと、気づかせられることが大切になる。神様が私たちに、苦しみの意 味に気づかせてくださるように祈る。主の慈しみを知る経験ができることを願 う。

  Ⅰコリント10章13節「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられな いようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられな いような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、 逃れる道をも備えていてくださいます。」

  80年前、戦争中、中国河北省で過酷な条件の下で伝道した牧師たちとその家 族がいた。『熱河宣教の記録』(飯沼二郎・著)に詳しい。その一人、砂山貞夫牧 師は中国の八路軍に連れ去られ帰らぬ人となったが、妻・節子は中国に残って夫 の帰りを待った。

 極貧の過酷な生活を余儀なくされ、病気や栄養失調で子供2人を失い、母一人 で子供3人を育てる。そして、ついに自身も栄養失調で失明する。病院の廊下で 暗澹たる思いの中にあったが、心の中に讃美歌が響いてきた。「数えてみよ、主 の恵み。一つずつ数えてみよ。」(新聖歌172番)。失明しても、まだ歩ける、 まだ聞える、まだ話せる。恵みを一つずつ数えているうちに「いつも喜んでいな さい」との主の言葉が聞えた。終戦8年後、帰国し盲学校へ、盲人のための伝道 に尽くした



   
 愛隣こども園
宮城県仙台市青葉区五橋1-6-15
〒980-0022 ℡:022-222-3242