日本キリスト教団

2021.06.06 説教ダイジェスト
礼拝説教要約 「生きることへ」
エゼキエル書18章1-4,21-23節
 預言者エゼキエルは、ユダヤの国の神殿で働く祭司でした。神殿で働く祭司と して使い慣れた言葉を用いています。それは、「生きる」と「死ぬ」。祭司は神殿 の入り口まで来た人々を吟味するのです。「生きる」とは、神殿で礼拝をする民 のひとりに数えられること。罪を犯していない正しい人のことです。

 ユダの国が滅ぼされて、ユダの人々がバビロンに連行されていた時代です。ユ ダの人々は、あることわざを持ち出して、自分たちの罪を棚に置いて、祖先、親 の世代の人々の罪過ちのせいにしていました。エゼキエルは、そのことを見逃さ なかった。それで、誰も親の罪とは関係ない。罪は一人ひとり、罪を犯した本人 だけが背負うのだと告げるのです。

  「罪」そのものは親から子へと伝わることはありません。しかし、罪の「結果」 は世代から世代へと背負うことがある。ユダの人々は、祖先の罪がもたらす結果、 ユダの国が滅ぶという苦しみを背負わされています。しかし、それは罪のもたら す結果です。祖先の罪そのものは、背負っていません。

 なぜエゼキエルは、罪の話をするのでしょうか。罪はその人のものだという話 をするのでしょうか。エゼキエルの目の前にいるユダの人々が、今まで罪を犯し てきたかどうかも、もはや問題ではないのです。今生きているあなたがたがどう いう歩みをするのか、今神の前にどう振る舞うのか、問題なのはそのことです。 今、新しく出発することを、神は望んでいるのです。

  今日は読みませんでしたが、31節「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨 てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは 死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、 生きよ」これがエゼキエルが一番伝えたいことです。

  神様は一人ひとりをみておられます。どんなに苦しいことの中でも、神様のま なざしを忘れないでほしい。自分の思うようにならない現実を恨んで、誰かのせ いだと自暴自棄になるなら、これは決して生きているとは言えないと思います。

 罪はその人一人のもの。これは翻せば、神様は一人ひとりをみているのです。 神様の前で生きているか死んでいるか、それは一人ひとりのあり方によること です。自分の状況がどうあれ、神様を尊ぶ人は神様は見捨てません。エゼキエル は、今、神に従い、生きることを選んでほしいと呼びかけています。
 
 「このような苦しいばかりの人生は、生きるに足るものなのか」と私達は人生 を評価しようとします。しかし、反対に私の人生が問いかけています。「あなた はこの人生をどうしたいのか」と。 1/

   
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