日本キリスト教団

2021.05.30 説教ダイジェスト
礼拝説教要約 遣わされる人」
イザヤ書6章1-8節
 イザヤは、神様が神殿に臨在される様子を見るという神秘的な体験をした。イ ザヤは、どんな反応をしたか。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた 唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。」(5節)神様を聖なる方とする思いがイザ ヤを捕らえ、自分は滅ぼされると思った。「わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の 民の中に住む者。」そして、神は、イザヤの唇を清めるということをなさった。 イザヤは、自分自身の罪を思い、滅ぼされるべき者と思ったが、神様はイザヤの 罪を拭ってくださった。こうことがあった後、神様が「誰を遣わすべきか。誰が 我々に代わって行くだろうか。」と呼ばわった。イザヤは「わたしがここにおり ます。わたしを遣わしてください。」と名乗り出ることができた。

  旧約聖書では、神様は聖なる方なので、神の姿を見たものは必ず死なねばなら ないと言されている。イザヤも聖なる神の前にいると知って「わたしは滅ぼされ る」と言っている。神様が聖なる方であるということは、とても恐れ多いことだ った。イザヤは、自分自身の罪深さを思い、滅ぼされてしまうと思っていたが、 それなのに、神は罪を拭われる。これは天地がひっくり返るような驚くべき出来 事だった。

  イザヤが神様を聖なる方だと尊ぶ思いは、その裏返しで神様のために働くこ とはふさわしくないのだと、神を遠い存在だと思い込ませていたかもしれない。 しかし神様は、そのように卑下する気持ちをも拭い去ってくださった。罪赦され て、もはや何を恐れるというのか。神様は今、イザヤのやる気を信じて待ってお られる。「誰を遣わすべきか」と呼ばわっている。イザヤは、神様を尊ぶ思いを 抱きつつ、神様の大きな期待を受け止めた。

  神様からの赦しは、身に余る恵みだ。罪の中に閉じ込められていたが、自由に なるのだ。イザヤは、罪を赦されて、神の恵みを受け、恵みに応えて、預言者に なる。神様は、今も呼びかけておられる。神様があなたの罪を赦されたと信じる 人は、神様の恵みに応える人は、どこにいるのかと。

 最近、火山が噴火したアフリカのコンゴ共和国の西にあるガボンという国は、2 昔、医者のシュバイツアーがジャングルの中に病院を開いて、人々の病気の治療 に尽力したところだ。彼は、医者になる前、有名なオルガニスト、音楽家だった。 本職は、大学の教授、キリスト教の神学者。その研究成果は、今での輝きを失っ ていない。誰もが、その道を突き進むものと思っていた。しかし、ある日、自分 はこんなに恵まれていてよいのかと思ったという。何不自由なく豊かで恵まれ ていることを我慢できなくなった。自分に与えられた神の恵み、その恵まれた立 場を思えばこそ、恵まれないアフリカの人々と共に生きる道を選んだ。そのよう にして神様の恵みに応えた。

  教会は、教会に連なる皆さんの奉仕で成り立っている。奉仕は、体を動かすこ とばかりではない。病気の人、体を動かせない人は祈ることができる。体を動か し働ける人は、自分にできることをする。ドイツ語で「奉仕、役割、使命」とい う言葉は GABE、「賜物、恵み」という言葉は AUFGABE。賜物を元にして働く、 恵みに応えて働くのだ。そのようにして、神の呼びかけに応えるのだ。

  今日は、三位一体主日。三位一体、神、キリスト、聖霊。この三つが揃ったと いうことを覚える日。つまり、三位一体主日、私達が信仰生活、教会生活をする ために準備万端整ったことを覚える日だ。あとは、私達が何を信じ、何を祈り、 何を求め、誰のために、誰と共に、どのように働くのかということだ。そして、 神の救いの恵みに応えることが、私達の力の源だ。

   
 愛隣こども園
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