礼拝説教要約 「ひとつになる」 エフェソの信徒への手紙2章11-22節

20207月05


  私にとって一番印象深い教会は、K 教会です。この教会は、ニュータウンの教会でした。1960年代に宅地造成がなされ、各地からたくさんの家族が移り住んできたのです。開拓伝道がなされ、集う人たちそれぞれの出身教派はいろいろです。出身も、来歴も、職業も違いますから、皆さんそれぞれに違うことをおっしゃるのです。

 
また、牧師も一人の信徒であるということでした。すべてのこと、教会の皆さんで話し合い、相談して進めました。定期総会があり、そのほかにも全体での話し合いの会が持たれました。話し合う話題があってもなくても、とにかく集まっていました。教会はみんなで作るものだ、一人ひとりが大切なのだということを教えてもらいました。

  その後、行く先々、どこの教会も、大なり小なりニュータウン教会ではないかと思っています。様々に異なる人の集まりです。一人一人が大切です。教会はみんなで作るものです。このことを覚えて牧会しようと思っています。

 エフェソの教会には、ユダヤ人も異邦人もいます。そこではもはや、反目し合い敵意を向けることはなくなり、キリストの愛によって、キリストを土台にして、共に平和に交わるようになっています。キリストの故にひとつです。それは、ユダヤ人も異邦人も、等しく神に愛されていると信じているからです。キリストが十字架にかかってユダヤの律法の定めを満たし、ユダヤ人が律法を守っているから特別な人たちだと言わなくなった。ユダヤ人と異邦人の間の、隔ての壁、反目し合う原因は取り除かれた。来歴が違い、もともとは異なる人たちが、神様に愛されていると信じて、共にいることができるようになっている。

 
十字架にかかったキリストが尊ばれるから、教会はユダヤ人も異邦人も共にいられるところです。神様抜き、キリスト抜きなら、どうしても、私がどうだこうだと言うし、あなたはどうだこうだと言う。そうやって、人との違いばかりが目に付いて、共にいることができなくなる。これでは、教会は成り立たないです。そうではなく、私のことよりも、神様のこと、イエス・キリストのことをまず思うのです。

 
コリントの教会のことをパウロは嘆きつつ、こう言っています。コリントという町の教会では、指導者をめぐって党派分裂していたというのです。Ⅰコリント3:5「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。・・・6 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」この言葉を聞くと、私は、あのK教会で「前にいた教会の話はしないでくださいね」と言われたことを思い出します。あの教会では、まさにパウロでもアポロでもない、神様、キリストがおられるから、集まっていた、みんな共にいたのです。パウロもアポロも誰なのかもし知らなくても、とにかく神様を信じているから、来週も礼拝に集まれるとお互いに信じられるから、だからひとつだった、教会として成り立っていたのでしょう。 <

 
エフェソ2:15「こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し」た。神の前には、もはやユダヤ人も異邦人も区別はない。それぞれの今までのこと、来歴は問題ではなくなっている。皆同じく神に愛される救われる人、お互いが神の前に「新しい人」になっている。19節「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり」、新しい人である。

 教会には、神に愛され救いに与る人々、神の前に「新しい人」が集っているのです。私たちには人間を見れば、いろいろ違う。しかし、お互いに「新しい人」であることを弁えるなら、互いに同じ神に救われる者同士であることを喜びとして、それぞれの違いを超えて、共にいることができるのです。

 この「新しい人」とは、神様に救われることを喜び、神様の救いへの招きに応えた人です。教会に集う人たちは、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、キリストの福音を聞いて、神様の呼びかけに応えて集まってきた人たちです。教会は、エクレシア(召された人々)です。神様はすべての人を愛し、すべての人を御許に招いています。教会は、招かれた人々の集いです。集う人に様々に違いがあっても、ただこの一点、「神様に招かれている」、このことによって成り立つのです。


 皆さんも、神様に招かれています。神の前に「新しい人」です。神に招かれている私たち、新しい人である私たちが、神様に喜ばれる教会を作っていくのです。
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⑤2020.7.05説教「ひとつになる」DIGEST
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