礼拝説教要約 「信仰によって」 ハバクク書2章1-4節 <

20206月21


 預言者ハバククは、1章で、神の民イスラエルに、人の世に正義のないことを嘆き、憤り、神に訴えます。それは、神を疑っているからではない。正義を求める神がおられるのに、正義は失われているではないか、どうしたことかと問うのです。


 そして、今日の2章です。神様がハバククの訴えに答えてくださいました。今、この世は不正にまみれているが、それは続かない。神様の正義がはっきりと示され、この世界が神様によって平和に治められる時が来るというのです。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように/板の上にはっきりと記せ。・・・たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。」

 昔、文字は粘土板に尖った筆で書きました。走っていても、動き回っていても読めるくらいに大きくはっきりと書けと。それほど確かに神の幻、神の正義が実現するときが来るというのです。


 私たちは、苦しい目に合えば、いったいいつまでこんな目にと思います。そうやって、だんだんと神の愛を疑い始めます。神様は本当に救ってくれるのか、神様は本当に正しい方なのかと思います。これを、神義論と言います。キリスト教の神学では、神義論は、神を疑う不信仰なことだと遠ざけてきました。が、私たち人間はそれをやめられないのです。これは、多くの人が信仰を抱くことが難しい理由でもあると思われます。神様が、この世の物事をややこしくしているようにも思えてくるのです。神様を疑うことは、信仰にとって命取りです。

ハバククは神様に問いかけますが、神様を悪者にして問いかけているのではないのです。神様は必ず正義を示してくださる方なのに、どうしてそれが遅いのか。神様こそ正義だと信じているから、神様に期待するからこそ問いかけるのです。だから、神様は答えられたのです。確かに神の正義が示されるときが来る、それは「もうすぐだから待っていなさい」と。

p 「神に従う人は信仰によって生きる」。ここでいう「信仰」とは、ハバククが神様を一点の曇りもなく信じていること。「信仰」(ムーナー)とは、堅固である、確かであるという意味。神様がどんなことがあっても確かな方である、そして、確かな神様を信じている人は確かにされている、ということを言います。

 そして、最後の317節以下。耳を疑うような言葉です。いちじくの花は咲かず、ブドウの木も実をつけない。良いことはないもない。むしろ、損害を被っている。しかし、神の救いを確信し、喜び踊る。目の前の有様はないもよくはならない。しかし、神の正しさ、正義を信じ続けるというのです。

 今から10年前に書かれた本で、ニューヨーク在住のユダヤ教のラビ(教師)、クシュナーという人が書いた『なぜ私だけが苦しむのか』という本があります。幼い息子を病気で失い、悲嘆にくれ、神様はどうしてこんな苦しみを与えるのかと神様に激しく問いかけました。出版当初はベストセラー、10か国語に翻訳されました。

 クシュナーは、苦しみ悲しみに意味を見出せません。本物の信仰者であれば、神様のなされることには意味があると、愛する息子が苦しむだけの甲斐があったと信じるべきでしょう。しかし、子どもが苦しんでいるのを見ていた親には、そのようには決して言えないです。神様を疑い恨む気持ちが湧いてくるのです。しかし、神を恨むことは良くないです。クシュナーはユダヤ教のラビです。信仰と不信仰のはざまで、信仰と人間の生の気持ちの間でもだえ苦しみ悩み抜くのです。そして、得た答え。「なぜ、こんなことが起こったのか」という問いを超えて立ち上がり、「こうなった今、私はどうすればよいのか?」と問うこと。「完全ではない世界を赦し、そんな世界を造った神を赦し、人々に手を差し伸べ、何がどうあろうと生き続けていくのです。」

 なぜ苦しむのか、なぜ神は苦しみを与えるのかと問うことをやめる。神様のなさることは、人間の思いを超えている。人間にはわからない神を、いつもどんな時も信じられるかどうかではない。それよりも、この世界に苦しみ悲しみがあることを受け入れ、苦しみ悲しみを大いに嘆き、苦しみ悲しむ隣人と共に生きる道を探っていく。苦しみ悲しみの意味は問うことをしない。神様のせいにもしない。

 このクシュナーの答えは、説得力があると思います。今すぐに苦しみ悲しみの意味を神に問いかけるのではなく、神の御業のその次の御業を見せていただく、苦しみ悲しむ人と共に歩んでいく。神様は私たちをどこへ導いてくださるのでしょうか。苦しみ悲しみのその次に、神の御業がなされていくと期待する。これも神の喜ばれることではないか、神を疑わず信じているということではないか、ハバククの後に続くことではないかと思います。

 クシュナーの言葉を読みながら、ユダヤ教なのにキリスト教のようなことを言うなあと思いました。キリストは、十字架にかかりました。いつも悲しむ人苦しむ人と共におられます。十字架のキリストを主と崇めつつ、神を信じるということはどういうことだろうか、これからも考えていきたいと思います。

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