礼拝説教要約 「いつも共に」  ヨハネによる福音書14章15-19節 <

三位一体主日 20206月7日

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 食堂で食事をしていると、どこからか突然、「わかるわー」という大きな声がしました。職場の話をしていたようです。職場を同じくする人には「わかるわー」なのです。でも、たまたま隣のテーブルの私には、何のことかさっぱりわかりません。では、「わかる」って、どういうことでしょうか。頭でわかるでなく、実感を伴って分かる。神様の救いがわかる。それは、人の言葉や理屈だけでは、なかなか難しいのではないでしょうか。

イエスは、弟子たちに、イエスはこれからいなくなる、十字架にかかり、そして天に昇ると予告されました。イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」。あなたがたは私を知っているなら、父なる神をも知っているのだ。私の行く所は父なる神のみ許であり、これから分かるようになると言われます。

 そして、イエスはいなくなるが、その代わりに弁護者、聖霊が弟子たちと共にあるので、弟子たちはイエスが救い主であることがわかり、イエスを信じていくことができると言われます。

 「父は別の弁護者を遣わして」と、「別の」と言われています。「もう一人の」です。今までは、イエス・キリストが弟子たちの弁護者だった。これからは別の弁護者、聖霊が共にいる。それで、弁護者であるキリストが共にいるのと同じ状態になると言うのです。「弁護者」、パラクレートス。“そばに呼ばれた人”“私のそばにいて私のことを助けてください”と言われている人のことです。誰かが私を悪く言うなら、正しさを弁明してくださる。罪人だと言うなら、神の顧みを受けていると言い返してくれる。困っていたら、解決の道を示してくださる。救い主イエスのことがわからなくなったなら、わかるように導いてくださる。イエスを裏切り罪を悔やむ弟子たちにも、神の愛があると示し、罪人を再び立ち上がらせてくださる。弁護者は、弟子たち、私たちを導き守ってくださるのです。

 18節「わたしは、・・・あなたがたのところに戻ってくる。」聖霊が共にあり、もう一人のキリスト、弁護者が共にあり、キリストは弟子たちのもとに戻ってくる。救いの命をもって共におられる。だから、「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」

p 私たちは聖霊によって弁護され、助けられて、信仰の歩みをなせます。イエスを救い主とわからせてくださり、イエスを信じることを続けられるようにしてくださいます。私たちが信じるのは、聖霊の助けによるのです。つまり、神様の助けによるのです。神様が、私達にキリストを信じさせてくださっているのです。

 浄土真宗では、「南無阿弥陀仏」と唱えます。「南無阿弥陀仏」と唱えていること自体、救われている証拠です。唱えようという気持ちが起こっているということ自体が、救いなのです。仏様が、「南無阿弥陀仏と唱えよう」という気持ちを与えてくださっているというのです。ですから、「南無阿弥陀仏」と唱えつつ、ただただ救われていることを感謝するばかりなのだそうです。

 これは、私たちも同じではないでしょうか。私たちが神様にお祈りしようと思う気持ちは、神様がくださったのです。神様を信じようと思う気持ちは、神様がくださったのです。隣人を愛していこうという気持ちは、神様がくださったのです。礼拝に行こう、参加しよう。この気持ちは、神様がくださったのです。神様が、私たちに信じること、愛すること、その思いを与えてくださり、その思いを支えてくださるのです。

 神様が信じさせてくださっている。だから、私達の信仰は、神様からの「賜物」だと言われるのです。平たく言うと、神様からの「恵み」です。信仰は恵みです。イエス・キリスト十字架、これが救いだとわかる、理屈だけでなく心でわかる。これは、かけがえのない神様からの恵みです。人の力によることではありません。この私は、この私が、キリストを信じています。それは、神様が助けて下さっているのです。信じている、信じていくことができる、本当に感謝です。

  聖霊が、私たちとイエス・キリストとが共にいるようにしてくれる、神様と共にいるようにしてくれています。キリストの慈しみとりなしに守られて、信仰の歩みをなしていくことができます。信じて歩んでいける、信じていることの幸いを、改めて感謝したいと思います。

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