礼拝説教要約 「どこへ行くのか」 ヨハネによる福音書7章31-33節

 仙台の青葉城に行きました。小高いところにありますね。伊達政宗の銅像が仙台の街を見晴らしています。10年前に英国に行き、英国国教会のリバプール大聖堂に行きました。その教会の正面の扉の上、屋根に近い高いところにイエス・キリストの小さな像があり、その顔は街の方を向いています。高いところからキリストが見守ってくれていると思うのも、嬉しいことだと思いました。

先週の木曜日、521日はイエス・キリストが天に上った日、昇天日でした。今日は、イエス・キリストが天に上られたこと、昇天とはどういうことなのか、信仰的にどういう嬉しいことがあるのかという話をします。

 先ほどの伊達政宗、この人は偉大な武将の一人で、歴史家は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に並ぶ武将だと言っています。徳川が天下を取った時、もしかしたら伊達政宗が天下を取ろうと企んだのではないかと疑われたのでした。この世の力、支配を勝ち取ることを、「天下を取る」と言います。私たちの意識では、下からではなく、高い上の方から支配するということになっているようです。イエス・キリストは、この世を支配しています。聖書は唯一の主、この世の主であると告白しています。天に昇られたのです。

 ある人は、現代人は天に昇るとか、昇天するとか、そういうことは信じられないのではないかと言います。神のみもとに行く、で良いのだと。けれど、私は、昇天の意味することはやはり「昇天」でないと言い表せないのではないかと思います。私たちは「天下を取る」と言います。私の心の成り立ち、意識として、天というものは、他では代えられない、それなりの意味があると思います。イエス・キリストは天上の神のもと、天におられ、神の右の座に座しておられる。神様と一緒にこの世界を見晴らし、見守ってくださっているのです。

 私たちはこの世で苦しみ、悩みがあります。私たちは神様に導きを求め期待します。イエス様は天の上で、そういう私たちのことを見ていてくださり、私たちの心の内の思いや願いを知ってくださり、神様に私たちのことをとりなしてくださっています。天の高いところから、この世界を見晴らし、すべての人の願いをとりなして下さいます。

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p イエス様が天に昇って神のみ許におられる、これが私たちの救いの拠り所です。救い主が神様のもとにおられる。私たちもイエスの後に続いて、神のみ許に行くことができるようになっているのです。

今日の聖書の言葉、イエスの言葉を聞いたユダヤ人が、いったいイエスは何を言っているのだろうかと戸惑っています。36節「『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」

イエス様が働かれたのは今から2000年前、場所はユダヤの国。当時のユダヤの人々は、人は死ぬと地の下(陰府、シェオール)に降ると信じていました。イエス様が教えを説き、キリスト教の伝道がなされて、死後は神のもとへと信じるようになりますが、そうなるまで、ユダヤの人々にとって死は地の下に降ることだったのです。

 そういうユダヤの人々の中で、イエス様おひとりが神のもとへ、天上に昇ると言えたのです。神の子、神のもとから来て、神のもとへと帰っていくのです。イエス様は自分は神の子である、神のもとに帰るのだ、つまり、私は神のもとから遣わされた者、神の遣わした救い主だということを告げておられるのです。このことを信じないユダヤの人に、イエスはそれでよいのかと、冷たくも厳しく聞こえる言葉を向けて、イエスを信じる信仰へと、神のみ許へ招かれる信仰へと、人々を促しておられます。イエスを信じている私たちは、主の温かく力強いみ手に守られ、神にとりなしていただける、神のみ許に行くことができます。

クリスチャンの詩人、星野富弘の詩。「ひとは空に向かって寝る/ 寂しくて 空に向かい/ 疲れきって空に向かい/ 勝利して 空に向かう。病気の時も 一日を終えて床につく時も/ あなたがひとを無限の空に向けるのは/ 永遠を見つめよと いっているのでしょうか。ひとは空に向かって寝る。」

「ひとは空に向かって寝る」天に向かって寝る、そして永遠を見つめる。そのようにして、神様の奥深い計らいを思い、救いの御業を思う。

「空に向かって寝る」。神様と向き合って一日を終え、神の守りの内に眠りにつく。幸いなことだと思います。

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⑤2020.5.24説教「どこへ行くのか」DIGEST
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