日本キリスト教団 仙台松陵教会



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                          ユダの裏切り(20705)  ヨハネ18:1-11
今日の18章からイエスの逮捕と十字架への道に入ります。
福音書にはすべて、すべてイエスの逮捕と十字架の出来事が記されていますが、ヨハネ福音書はマタイ、マルコ、ルカの3つの福音書、共観福音書と言われるものとの、違いがあります。
 具体的な違いというものは、多くありますが、それよりもこのヨハネ福音書におけるイエスの逮捕と十字架の出来事において中心的なことは、イエスの逮捕と十字架がイエスの意志において、イエスの主体性においてなされているということです。
 イエスはユダに率いられたイエスを逮捕しようして来た一隊の兵士と、祭司長達やファリサイ派の人々の遣わした下役たちに、自ら進んで姿を現わそうとされます。
 4節でイエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て誰を探しているのかと、言われたとあります。マタイ、マルコ、ルカ福音書においてはユダが接吻する人が、その人だと、それを合図にイエスが逮捕されますが、ヨハネ福音書にはそのようなことは記されていません。自ら私であると名乗っています。
 5節で彼らが捜しているのは、ナザレのイエスだと答えると、イエスは私であると言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。とあります。
 ここでイエスは私であると答えていますが、これは神顕現、自分は神であるとの自己啓示を現わしています。
 これは旧約聖書の出エジプト記3章14節の神とモーセとの出会いにおいて、神がモーセに対して、わたしはある。私はあると言う者だと言われ、また、イスラエルの人々にこう言うがよい。わたしはあると言う方が私をあなたたちに遣わされたのだ、という神顕現、神がモーセに自分の存在を現わした言葉が、イエスによって使われていると言うことです。
 このあとイエスは6節でも、私である。8節でも私であると答えています。この私であるとの言葉はギリシャ語でエゴー、エイミーと言いますが、英語ではアイ,アムとなります。これでは意味が通じないように思いますが、このように言うことで、イエスは、私は永遠から永遠に私はある者だと言うことです。
あってある者すなわちかつてあり、今もあり、未来もある存在、すなわち、永遠に存在する神であると言っていると言うことです。
 すべての事は神の計画、神の子であるイエスが自分の意志によって、その計画をなされようとして、その中心的なことがイエスの逮捕と十字架です。イエスは逃げようと思えば、逃げることはできますが、神の計画に自ら従ったと言うことです。
その神の力は6節でイエスが、私であると言われた、彼らは後ずさりして、地に倒れたと、言うことでも明らかです。
 それはイエスの神としての権威、その絶対的力に圧倒されて、イエスを逮捕しに来たものは、後ずさりして、地に倒れます。
 イエスは神の子として、避けることもできる、逮捕と十字架への道を、自らの意志によって選ぶことになります。
 ヨハネ福音書10章18節には、だれも私から命を奪い取ることはできない。私は自分でそれを捨てる。私は命を捨てることもでき、それを再び受けることが出来る。是は、私が父から受けた掟である、とのイエスの言葉にその事がすでに暗示されています。
 14章から16章までは、イエスの告別説教でした。イエスが神の元に帰る。残していく弟子たちの為に残した言葉です。そして17章がイエスの弟子達、この世の教会の為の執り成しの祈りです。
 今日の聖書は、そのイエスの執り成しの祈りが終わってからの出来事です。
1節で、こう話し終えると、イエスは弟子達と一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子達とその中に入られた。
 キドロンの谷とは、ヨハネ福音書にしか出てこないですが、キドロンの谷は、エルサレムの町とオリーブ山の間にあり、冬の雨季にだけ水が流れる峡谷です。その向こう側のオリーブ山の麓にある園を、マタイとマルコは、ゲッセマネと呼んでいます。そこでイエスは血の滴るような祈りを捧げたとありますが、ここで言われる園とはゲッセマネの園の事を言っていると考えられます。しかし
ヨハネ福音書にはゲッセマネの園の祈りはありません。
2節でイエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子達と共に度々ここに集まっておられたからであると、あります。イエスとその弟子たちは、昼間はエルサレムで活動し、夜はオリーブ山の麓にあるゲッセマネのあるあたりで休んでいましたから、ユダはイエスが、夜はこの辺に居ることを知っていたと思います。
 3節でそれでユダは、一隊の兵士と、祭司長達やファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。これはイエスを逮捕しに来た時間が夜であるということですが、ユダヤ教の一日は夕方から始まるので夕方と考えても良いと思います。
イエスの逮捕は過ぎ越しの時期なので、この過ぎ越しの時は満月であり、明るかったと言われています。その用意周到さがうかがわれます。イエスと弟子たちが暗闇にまみれて、しげみや岩壁にかくれるということも想定していたと思われますが、その必要はなく、イエスは自ら名乗り出ることになります。
このイエスの逮捕劇において、マタイ、マルコ、ルカの共観福音書とちがうところは、イエスを逮捕しに向かったものの中に、ローマ兵とファリサイ派がいたということです。3節の一隊の兵士とはローマ兵のことをさします。一隊とは一レギオンの十分の一、600人の部隊を指す言葉ですが、時にはその三分の一、200人の編成をも意味しました。またファリサイ派もいたと言うことです。
 ここでローマ兵とファリサイ派が出てくることは、イエスが活動されたのは紀元後30年頃です。ヨハネ福音書の書かれた時代は、紀元後90年代の初めの頃と言われていますが、イエスの活動された頃、イエスの裁判を行なった最高法院、サンヘドリンは祭司長、律法学者、長老で占められていました。マタイ、マルコ福音書ではイエスの逮捕に向かったのもこの人達です。しかし紀元後70年エルサレムはローマによって滅ぼされ、その後エルサレムで力をもったのは、ファリサイ派の人達でした。
 ですからここでローマ兵とファリサイ派が出てくることは、ヨハネ福音書の書かれた時代背景があると言われています。そのころのヨハネの教会はファリサイ派を中心とするユダヤ人からは異端扱いをされ、ローマ帝国からの迫害もありました。
 そのような中で、イエスを逮捕しに来たローマ兵と律法学者たちへのイエスの力強い態度は迫害を受けていたヨハネの教会の人達への慰めと希望になっていたかもしれません。
またヨハネ福音書には大祭司の手下の耳を切り落としたのはペトロであり、その手下の名はマルコスであったと記されています。またイエスが逮捕されても他の福音書のように弟子たちは逃げ出しません。
 ヨハネ福音書においても、イエスの逮捕においはユダの裏切りにおいて為されるものですが、ヨハネ福音書17章12節で私は彼らと一緒にいる間、あなたが与えて下さった御名によって彼らを守りました。私が保護したので、滅びの子の他は、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。とあります。
 ヨハネ福書において、今日の聖書はユダが最後に出てくる場面です。6章71節で12弟子の1人でありながらイエスを裏切ろうとしていた。
ユダはヨハネ福音書の中の3つの場面12章1節からのベタニアにおける香油、13章1節からの告別の食事、今日の逮捕の場面に出て来ます。そこで言われることは、ユダはイエスに最も近い者の一人であったが、イエスを裏切ったと言うことです。ユダはイエスと共に食事をし、イエスに足を洗ってもらったにもかかわらずイエスを裏切り、背を向けたと言うことです。
 その現実はユダの裏切りが神の計画だとしても、その現実は私たちに訴えかけてくるものがあります。ユダの裏切りには何ら秘められた動機はありません。 
 彼は単に悪の支配に身を委ねたと言うことです。3章19節の光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっているといいます。
 しかし、その現実からイエスの十字架と復活において、光は闇に勝利された。
神のこの世の悪魔的力からの勝利に終わっています。
 ユダは過ちをおかした、これも私達人間の姿であると、イエスの逮捕をとおして、私たちは知ることになります。そこからの救いは光であるイエスを信じることです。その選択がイエスの逮捕を通して、ユダの裏切りを通して私たちに求められていると言えます。


すべての人を一つに(20628)    ヨハネ1720-26
 17章は大祭司としての、イエスの執り成しの祈りであることをいいました。
1節から5節は、子であるイエスが父である神に栄光を祈り求めたものでした。6節から18節は、イエスが弟子たちを地上に残して、父である神のもとに帰るイエスの弟子達の為の祈りです。彼らを守ってくださいとイエスは神に祈ります。
 そして今日の20節からは弟子達だけでなく、弟子の働きによってイエスを信じた者に対するイエスの祈りです。
 20節でイエスは、彼らのためだけではなく、彼らの言葉によって私を信じる人々の為にも、お願いしますと、祈ります。ここで言う彼らとはイエスの最初の弟子、12弟子のことを言っています。そしてここでは、彼ら、弟子の言葉によってイエスを信じる者たちのためにお願いしますとイエスは祈ります。
 ここでは、直接イエスに出合い信じた弟子達。その弟子たちの言葉、宣教によって信じた者たちの為にお願いしますとイエスは祈ります。
 今日の聖書を読んでお気づきかと思いますが、イエスの祈りの中で一つという言葉が何度も出て来ます。21節のすべての人を一つに。22節の私達が一つであるように。彼らも一つになるため。23節の彼らが完全に一つになるためです。このように福音書記者が何度も、一つと言って一体性を強調するのには。その背景に何かがあったのではないかと推測する注解者もおります。
 ヨハネ福音書が書かれたのは、だいたい1世紀末と言われています。最近の研究では、キリスト教がユダヤ教から異端として迫害されたこと。その理由はイエスを神の子、神と告白したことによりますが、それが起こったのは恐らく80年代半頃であり、またローマ帝国のドミティアヌ帝による迫害、当時のローマ皇帝は神のような存在でしたから、ローマ帝国内にキリスト教が広まり、その中で、キリスト者が皇帝礼拝をしなかったことで、キリスト者は迫害を受けました。それは95年頃と言われています。
 福音書を読む場合、イエスの言葉、伝承、そこから知ることのできるイエスの生前の状況と福音書の書かれた時代における教会の状況を両方考えることが必要であると言われています。
 ヨハネ福音書の書かれた時代は、ヨハネの教会が異端としてユダヤ教から迫害を受け、追放された時代であると言われています。
それを読み解く手がかりはヨハネ福音書9章22節には両親がこう言ったのは、ユダヤ人を恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである、と16章2節の人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時がくるという言葉で推側することが出来ます。イエスをメシア、神と告白することで会堂から追放されると言う状況がありました。
 そのような状況があって、ヨハネ福音書記者は共同体の一体性を強調しているのではないかと言われています。そのような中で教会の一体性をそこなう何かがあったのではないかと言われています。
そこにはユダヤ教側の迫害や、さらにヨハネの教会の中に異端が入り込んでいたのではないかといわれています。原始キリスト教にはグノーシスというイエスの人間性を否定する、神の子が人間となって十字架に架かるなどあり得ない。十字架に架かったイエスは仮の姿であるという異端がヨハネの教会に入り込んでいたのではないかと言われています。ヨハネ福音書にはグノーシスの影響があると言われています。
 このような中でイエスは、この世にあって一つになることを言います。
21節でイエスは、父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも私達の内に居るようにしてください。そうすれば、世は、あなたが私をお遣わしになったことを、信じるようになりますと、言います。
伝道によってキリストを信じる人は増えました。ヨハネの教会は直接イエスの教えを受けた弟子から、その弟子の伝道、言葉によって信じた第2、第3世代の信者によって占められていました。
 その中ですべての人が父と子である神の一致にあずかって、一つとなることが祈られています。天において父と子が一つとなって栄光を現わしている。地上においては、弟子たちの共同体が一つとなって、神の栄光を現わしている。
神の栄光とはイエスの十字架と復活における私達の罪の贖いと死からの勝利です。そのことを信じる者は永遠の命が与えられる。そのことを世に伝えて行くことが重要なことです。
 ヨハネ福音書における世とはユダヤ人を指し、イエスと敵対しました。そしてイエスを十字架に送ることになります。
 しかし、ヨハネ福音書のおいてこの世はイエスと敵対しますが、また伝道の対象でもあります。ヨハネ福音書3章16節には、神は、その一人子をお与えになったほどに、世を愛された。一人子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためであるとの言葉でも明らかです。
 今日の聖書で父と子、共同体の一致、一つになることを言います。その中心にあるのは愛であることがわかります。
 23節で私が彼らの内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたが私をお遣わしになったこと、また、私を愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世は知るようになるといいます。
 イエスをこの世に遣わされたのは、神がこの世を愛されたからです。
それはイエスの十字架に現れています。
 すべてのことは父の愛から出ています。ヨハネ福音書において愛は重要な言葉です。子に対する愛、弟子たちに対する愛、その愛を世に知ってもらいたいと言うことです。しかし、世はその愛を知らず、愛を拒否しています。
 そうであっても、神はこの世を愛されました。その愛によって一つになることで教会は存続しました。そして神の愛を、イエスの十字架を伝えていくこと教会の役目です。そのことにおいて教会は一つでありたいと思います。
 
                         御名を現わす(20621)     ヨハネ17:6-19
 6節からイエスの弟子達、これは現在で言えば私達の教会といっても良いものです。イエスは十字架と復活の後、神の元に帰りますが、そのことで弟子たちは地上に、この世界に残されることになります。そのために、イエスが地上に残る弟子達の為に、祈ったのが執り成しの祈りです。
1節から5節までは、イエスが神に対して、神の栄光を祈ったものですが、6節からはイエスが弟子たちの為に祈った執り成しの祈りに入ります。
6節でイエスは、世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現わしました。彼らはあなたのものでしたが、あなたは私に与えてくだいました。彼らは御言葉を守りました、と語ります。ここで、私は御名を現わしましたの、御名とは神の御名であり、それは神御自身です。
 旧約の時代は神の名をみだりに唱えることはできませんでした。神を見た者は死ぬと言われていました。出エジプト記3章の神とモーセとの出会いにおいてそのことが記されています。しかし、イエスが来られたことによって、イエスを通して、仲介により、神の名を唱えることができるようになりました。
イエスによって神がどのような方であるかが知ることが出来、そこから信仰が生まれます。
 6節の世から選び出したとは、神は人間を創造されましたが、人間はアダムとエバの創造の初めから神の教えを守ろうとはしなかった、神のようになろうとする人間の傲慢さ、人間の自分だけが良ければ良いと言う、自己中心的な生き方があります。
 そこからの悔い改め、救いのためにイエスは遣わされました。そのために最初に選ばれたのが12弟子です。イエスが12弟子の共同体に、神御自身を現わされ、それによって弟子たちが信仰に導かれます。そこには人間に信仰と知識を与える神の招き、主体性があります。人間が神を選んだのではなく、神が人間を選んだということです。
 私達は毎週、日曜日に礼拝を捧げます。自分の意志で来ているように思いますが、神から呼び集められているものです。イエスは神の御意志を実現する為に、この世界に遣わされました。神の子としてイエスは父である神に従順であり、それは神とイエスとの一体性にあります。それであるのでイエスの言葉は神の言葉です。
ヨハネ福音書1章18節にあるように。いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐に居る一人子である神、イエス・キリストが神を示されたのであるとの言葉でも明らかです。
 7節から8節にはそのことが記されています。私に与えて下さったものはみな、あなたのものであることを、今彼らは知っています。なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしが御元から出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。
 ここで弟子たちに与えられた御言葉、イエスはあなたから受けた御言葉を弟子たちに伝えたと言いますが、この御言葉とはイエスによって啓示されたすべての事柄であり、イエスの奇跡、イエスの語った言葉すべてが含まれています。弟子たちはその御言葉を守り、保持し、伝えていく役目があります。それは現在の教会の使命でもあります。
9節からはが、イエスがこの世に残して行く弟子たちの為の具体的な祈りです。彼らの為にお願いします。世の為ではなく、私に与えて下さった人々の為にお願いします。彼らはあなた方のものだからです。
 ここで言われる世とはイエスや弟子達と対立し迫害していたユダヤ人社会です。この世の為ではなく、という言葉でイエスの隣人愛、汝の敵を愛せよとの言葉と矛盾しているのではないかという指摘がでてきます。
しかし、ヨハネ福音書においてイエスは終始一貫して世を愛し、世を救うために来られたことに変わりありません。しかし、救いとは世が、父と子の関係を正しく知り、受け入れることです。また、父と子の関係を先に知り、受け入れた弟子たちの証言を受け入れることです。
それは父と子と弟子たちの関係を認めると言うことです。したがってこの祈りはイエスの教会に対する偏った、偏愛の祈りで世を排除すると言うことではなく、父と子と弟子たちが一つであることを祈り、それによって世が神とイエスとの関係を信じるための祈りです。
ヨハネ福音書3章16節には,神はその一人子をお与えになったほどに、世を愛された。一人子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためであるとの言葉があることでも明らかで、イエスは神の一人子として、父によって与えられた使命を果たそうとされます。
 11節からはイエスははっきりとこの世から去ることを明らかにします。
11節でわたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしは御元に参ります。聖なる父よ、わたしに与えて下さった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。
 イエスによる神の名、神の独自性と性格の啓示はイエスの地上の務めの間に信仰共同体、教会の独自性を形づくりました。しかし、イエスが神の御元に帰る時が来たので、今、イエスは神がその名によって共同体の基礎を確保するように求めているものです。
 12節でイエスは、わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。ここで滅びの子とは12弟子の中でただ一人イエスを裏切ったイスカリオテのユダを指しています。そして聖書が実現するためであると言うことは、それが神の意志であり、神の計画であることを言おうとしています。
 14節でイエスは、私は彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、かれらも世に属していないのですと言います。世というのは当時のユダヤ人社会で、イエスを受け入れませんでした、イエスと弟子たちは一つであるので、イエスが弟子たちを愛すれば愛するほど、この世は弟子たちを迫害し、憎むと言うことです。
 また17節で真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理ですと言います。この聖なる者とする聖とは、宗教的に神の為に別にする。神の為に最もよいものを捧げるという意味があります。普通は人間が行うことですが、聖書において、神が御自身のために取っておかれるという意味に使われることがあります。
 真理とは神そのものであり、神は真理です。そのことから子であるイエスも真理そのものです。
 それは父がイエスを子とし、聖なるものとされたからです。それと同じようにイエスが神に弟子たちを聖なる者としてくださいと祈ります。神の言であるイエスは真理であり、人間となって十字架に架かり、すべての罪人を清め、救おうとされます。
 今でもイエスは聖霊によって現臨され、神と私たちを執り成してくださる方です。イエスによって私達は神を知ることが出来、神の救いに預かることが出来ます。そのことが私達の喜びです。
 
                             イエスの祈り(20614)   ヨハネ17:1-5

福音書を読みますと、イエスがよく祈っていたことを知ることが出来ます。代表的なものが、イエスが十字架を前にして祈ったゲッセマネの祈りです。十字架を前にして神にこの杯を取り除いてください、しかし、私の願いではなく御心のままにと、血のしたたるような祈りを捧げました。また弟子たちに教えた主の祈りがあります。
祈りは人間の本質的、根源的なものであると言われています。幼い子でもお祈りをします。人間は特定の宗教を信じていなくても祈り者であると思います。私達が病気や苦難に遭うと祈ることがあると思いますが、それは祈る対象があるからです。絶対的なもの、人間を超越しているものに対して祈ります。イエスもこのように、この地上にあって、人間として、共に苦悩し、神に祈りました。
 ヨハネ福音書には、ゲッセマネの祈りはありませんが、今日の17章はイエスが十字架を前にして祈ったもので、その意味ではヨハネ福音書におけるゲッセマネの祈りと言ってもよいものです。しかし、その内容は違いがあります。イエスは十字架を前にして、神の栄光と、残された弟子達ために祈る。それは教会といっても良いものですが、イエスの執り成しの祈りと言えるものです。
そのことから、この祈りは古代から大祭司の祈りと言われてきました。
イエスには3つの働きがあると言われています。王として預言者として大祭司としての働きです。イエスは残された弟子、教会のために神とこの世界のために大祭司として執り成しの祈りをしたということです。
 14章から16章まではイエスの告別説教で、イエスは父のもとに帰りますが、その代わりに弟子たちに助け主としての聖霊を送るという約束をしました。
 その告別説教が終わり、十字架を前にしたイエスの祈りが始まります。
1節でこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすようになるために、子に栄光を与えてください。これらのこととは14章から16章の告別説教と考えてよいと思います。そして天を仰いで祈ることは天におられる神との対話の姿勢であり、古代イスラエルでは、敬虔な人のしるしとされました。詩編121篇1節に目を上げて、私は山々を仰ぐ、という言葉がありますが、其の事からも知ることができます。
 1節でイエスは、父よ、時が来ましたと言います。この時とはイエスが今まで言ってきたように、十字架の時です。イエスの十字架、復活、神のもとに帰る昇天の時です。また、この時とは神が定めた時です。イエスは十字架の時まで、神に従順でした、それは神の独り子として、自分の使命を果たす時です。
そのことが神の栄光を現わす時です。人から見れば、敗北にしか見えない十字架がイエスの復活、昇天によって、神の勝利であり、栄光の時です。その神の栄光を現わすために、子に栄光を与えて下さいとイエスは祈ります。
さらに2節であなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることが出来るのです。ここで人を支配するとは専制君主のように人を支配することではなく、ご自分の命を犠牲にして人々に永遠の命を与えることであり、終末における救いの権能です。イエスを神から遣わされた神の子、神を啓示した者と信じる者は、永遠の命が与えられる。そして父から委ねられた人とは、イエスを神の独り子と信じる者です。その者は神の命に与り、神の子とされます。
さらに3節で永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエスを知ることであると言います。
 ここで知ると言うことが言われますが、普通知ると言うことは、知、情、意の一つとして頭脳的、知的な意味に理解されますが、しかし、聖書における知ると言うことは、もっと深い人格的な関係における知識を表します。
ヨハネ福音書における知ると言うことは、神またはキリストとの人格的な交わりであり、そのことで、父と子と弟子たちの間に知ると言う関係が出来上がります。そのことからそれは信じること、信仰と結びつくものです。そのことは今まで自分が生きてきた生き方に方向転換をもたらすものです。それは今まで自分中心に生きてきた人間が、神中心、キリストを中心に生き方を変え、他者の為にも生きることのできる人間へと変えられることです。それは隣人愛とつながります。
 4節でイエスは、私は、行うようにとあなたが与えて下さった業をなしとげて、地上であなたの栄光を現わしました。ここで言われる業とはイエスの行ったしるしとしての奇跡に限定されるものではなく、十字架をも含んだものであると思います。イエスはヨハネ福音書19章30節でイエスは、このブドウ酒を受け取ると、成し遂げられたと言い、頭を垂れて息を引き取られた、とあります。
 イエスの地上の生涯は、父である神の意志に服従することによってなされました。その最後には十字架の死が待ち受けていましたが、そして最後最大の業である十字架の死によってすべての業が成し遂げられることを言います。
そして最後の5節でイエスは父よ、今、御前でわたしに栄光を与えて下さい。世界が造られる前に、私が御許で持っていた栄光を。ここではヨハネ福音書の冒頭の1章1節のロゴス賛歌、初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。というロゴス・キリストの先在ということが言われます。
世界が造られる前とは、天地創造の以前の時で、時間もまた、創造によってこの世界と共に始まりました。そのことからイエスが創造以前から実在されていたと言うことは、イエスは永遠の実在者であり、永遠の存在であり、その本質に於いて御父と一つであり、その栄光を父と共にする存在であることが言われます。
 イエスが地上の生涯を終えるにあたって、ヨハネ福音書の記者は、永遠の存在者、ロゴス・キリストの先在の栄光に思いを馳せ、大祭司イエスの祈りの冒頭としています。



しかし、勇気を出しなさい(20607) ヨハネ16:25-33
イエスは、十字架の死によって弟子たちのもとからいなくなりますが、そのことを見越して、イエスは弟子たちに別れの言葉を述べます。
 33節のこれらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたはこの世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。この聖句はヨハネ福音書でも有名な言葉であり、この言葉によって、慰められたり、励まされたりされた方は多いと思います。
33節のこの聖句は14章から始まったイエスの告別説教の結びであり、終わりであります。
 イエスの告別説教の最後の段落は25節の、私はこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時がくる、で始まります。ここでこれらのこととは14章から始まるイエスの告別説教だけでなく、イエスの全生涯における言葉ととらえても良いと思います。10章には羊の囲いのたとえがありました。15章にはぶどうの木のたとえがありました。
 しかし、弟子たちはそれを完全に理解することはできませんでした。弟子たちがイエスの言葉を完全に理解するのはイエスの十字架と復活、そしてイエスは父の元に帰ること。昇天され、助け主としての聖霊が降ってからです。
 その時はもはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来るとイエスは言います。
 先週の日曜日、私達はペンテコステの礼拝を捧げました。聖霊が弟子たちに降って、この世界に教会が誕生した出来事です。
 聖霊が降ったことでイエスの言葉を理解し、父である神をも知ることが出来ると言います。
 さらに26節には、その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげるとは言わない。イエスが弟子達と共に活動していた時はイエスが直接神に弟子たちの為に祈ってあげていましたが、その日には弟子たちがイエスの名によって直接神に祈ることが出来ると言います。
ここでその日とは終末だけのことを言っているのではなく、聖霊降臨の日をも。指しています。これはヨハネ福音書の特徴である、イエスがこの世界に来られたことによって、救いはすでに始まっていると言う、現在的終末論と言えるものです。
さらに父である神とイエスと弟子たちの一体性が言われます。その中心にあるのは愛です。それは福音書のおける中心ですが、ヨハネ福音書はそのことを強く言います。27節で父御自身が、あなた方を愛しておられるのである。あなたがたが、私を愛し、私が神の元から出て来たことを信じたからである。
28節でイエスは弟子たちに、私は父の元から出て、世に来たが、今、世を去って父の元へ行く。イエスは創造の昔から神と共におり、神の子でしたが、父である神から遣わされてこの世に来ました。神の子が受肉して人間となり、そして、十字架と復活の後、世を去って、父の元に行き、栄光を現わしました。
それに対して弟子たちは29節、今は、はっきりとお話になり、少しもたとえを用いられません。30節であなたが何でもご存知で、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、私達は信じます。
これは弟子たちの信仰告白と言ってよいものです。しかし、まだ聖霊を受けていない弟子たちは、この後、イエスを見捨て裏切ることになります。そのことをイエスは御存知でした。
30節の弟子達の答えに対してイエスは、31節から32節で今ようやく信じることになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、私を一人きりにする時が来ると言います。
弟子達は自信をもって、イエスを神の元から来た方であると、告白しますが、その自信がもろくも崩れ去る時が来ます。
事実、イエスが逮捕されると弟子たちは散り散りに逃げてしまいます。
これは旧約聖書の預言、ゼカリア書13章7節の羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。との預言が成就した出来事であると言われています。
人間の自信は神という絶対者を前にすると当てにならないということです。
しかし、このような自分を裏切った弱い弟子たちを、イエスは見捨てず、赦すことになります。
イエスの告別説教の最後の言葉33節のこれらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。
この言葉はイエスの生きた時代の弟子達の苦難と、ヨハネ福音書の書かれた時代の苦難をも語っています。弟子たちはイエスが逮捕され十字架に架けられたことで、絶望のどん底に陥ることになります。またイエスを裏切ったことによる悔恨と罪の意識がありました。
またヨハネ福音書の書かれた時代は、イエスを神と告白することによって、ユダヤ教の会堂から追い出される事態がありました。またローマ帝国からの迫害もありました。
しかし、イエスは復活によってこの世の悪、罪から勝利された。この世はイエスを否定しましたが、復活によって弟子たちは力づけられ、生き返りました。また父の元に帰ったイエスは助け主であられる聖霊を送り弟子たちを励まし、この世界にイエスの体である教会が建てられました。
キリスト教会の2000年の歴史も順調であったわけではありません。イエスを力強く証した弟子達も多くが殉教しました。しかし、この世界から教会がなくなることはありませんでした。
イエスが語ったのは神と共にある平和です。それはイエスの十字架の勝利によってもたらされるものです。人間が罪赦され、イエスを遣わされた神を信じ、神と共に生きることです。
預言書のエレミヤ31章には新しい契約という言葉があります。エレミヤ書31章34節には、その時、人々は隣人同士、兄弟同士、主を知れと言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者も私を知るからである、と主はいわれる。私は彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
この預言が新しい契約として、イエスによって成就されました。それはイエスの十字架の勝利によってなされるものです。
今、世界中が新型コロナ・ウイルスで苦しんでいます。苦難であると言えます。教会も例外ではありません。そのような中で教会はどうあるべきなのか、しかし、イエスは苦難の先にある希望と平和を語ります。そこの中心にあるのか、神の愛と十字架の勝利です。それはイエスを信じることによってすべての人にももたらせられるものです。今コロナ・ウイルスの影響で社会の寛容さが失われ、息苦しいような状態であると思います。しかし、イエスの十字架を信じる私達はイエスに罪赦された者として歩んでいきたいと思います。。




5月31日「一人一人を活かす」 使徒2章1節〜13節
                      深田 寛牧師
今日は聖霊降臨日です。教会の誕生日と言われています。
使徒言行録2章に聖霊が与えられた時の様子が記されています。

使徒言行録の著者は一章に、弟子たちは聖霊が与えられるまで、2つのことをしたと記しています。一つは心を合わせて祈りをしていた。もう一つはユダの死によって欠員になった弟子を、補充したことです。
今日、注目したいのは彼らの行為よりは、彼らの心の状態です。

彼らはイエスが十字架で処刑され時、逃亡したので罪責の念があり、それと支えを失い、挫折と不安を抱えていました。
そこえ復活をされたイエスが来られました。彼らは驚きと希望を得ました。
しかし、それも束の間、イエスは昇天され、彼らはイエスの姿を見ることが出来なくなりました。彼らはこれでイエスとの関係は終結したと思い、虚しく天を見上げたのです。
そんな彼らに、ユダが自死ともとれる謎の死が伝えられ、この不祥事はエルサレムの人に知れ渡りました。
彼らはイエスを失い、人々から懐疑の目で見られ、孤立していきました。
彼らは確かに弟子の補充もし、熱心に祈りもしました。しかし不安と孤立感をぬぐえなかったと思います。
彼らに残された道は祈ることしかなかったのです。彼らがどんな祈りをしたのか分かりませんが、「この虚しさから救ってください、これからの生きる目的を示してください」と祈ったと思います。
そんな彼らに聖霊が与えられたのです。
弟子の側の準備が整ったので聖霊が与えられたのではなく「救ってください」と祈りしかできない彼らに聖霊が与えられたのです。

使徒言行録の著者は、聖霊は風と炎を伴って、彼ら「一人一人の上にとどまった」と記述しています。
「皆に」とか「全員に」ではなく、「一人一人」です。唯一無二の一人一人です。不必要な人はひとりもいないことです。
聖霊は「救ってください、助けてください」と祈る、そのあなたがたが、神が必要とされていると語るのです。無価値な者が、神が必要とされる者と私たちの心に語リ掛けるのです。

この語りかけは弟子たちの意識を変えます。「神は私に何を与えてくれるか」から「私は神に何が出来るか」に変わります。聖霊はこのような変化を与える力です。
童謡詩人の金子みすずの作品に、「星とたんぽぽ」があります。                
青いお空のそこふかく、海の小石のそのように、
夜がくるまでしずんでる、昼のお星は目にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ
彼女は自分に言い聞かせるように「見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ」と繰り返します。
役に立つようなことは何もないと思うのは間違いで、私たちには出来るものを秘めているのです。それを掘り起こしてくれるのが聖霊です。

聖霊降臨日の今日、私たちは自らの存在が、教会の働きに欠くことのできない存在でることを自覚したいと思います。聖霊は組織の充実、一定の規模の拡大などによって与えられるのではなく、「祈りしかできない存在である」ことを自覚した時に与えられ、私たちは変わるのです。




           悲しみが喜びに変わる(20524)    ヨハネ16:16-24
今日、久しぶりに、役員だけですが、試験的に共に礼拝を捧げることができることを感謝したいと思います。
新型コロナ・ウイルスの影響で、東京の教会などは、教会は閉じていますが、少数の長老、役員、奏楽者だけの少人数で礼拝を捧げているところが多いと言うことです。中には礼拝を行なわない教会、普通に礼拝を行なっている教会もあります。
それは、それぞれの教会で様々な考えがあると思います。私は、礼拝は神様に捧げるものですから、会衆がいなくても、牧師は、一人でも、礼拝は行うべきものであると思います。
 私達の属する、宮城北地区の教会は殆んどが、新型コロナ・ウイルスで非常事態宣言の出ている間は、礼拝時間を短くするなどして、礼拝を行なっていました。
 仙台松陵教会も、そのような形で礼拝が出来たと思いますが、仙台松陵教会の会堂は、元々、礼拝堂として建てられたものではなく、天上が低い、あまり広くないなどを考慮して、しばらくは私一人で礼拝を行なうことにしました。
その間、教会員の方々が、がまんしてくださったことにも感謝いたします。
 今日、試験的に4月5日の役員会で決まった事、また役員の提案をうけた形で、礼拝を行いますが、礼拝の後の役員会で、皆様の意見をお聞きしたいと思います。
 今、日本、全世界を襲っている新型コロナ・ウイルスは未曽有の出来事であると思います。ただ100年前のスペインかぜで、世界中で、日本でも多くの人が亡くなったと言われていますが、そのことを知っている人は殆んどいないと思います。当時の写真を見ますと、マスクをしている人が多くいたと言うことが分かります。当時の教会がどのような礼拝をしていたのか、記録があれば見てみたいと思います。
 今日、与えられた聖句は悲しみが喜びに変わる時という小見出しがついています。説教題も同じものにしました。今の私達の状況というのは、不安と恐れと閉塞感の中で生活していると思います。悲しみというより、怒り、誰に怒りをぶつけてよいかわからない、やるせない状態の中にあると思います。
 しかし、そのような中でも、今は、だんだん暗闇の中から光が、希望がすこしずつ見えてきた状況であると思います。
 今日の聖句はイエスが弟子たちに、自分が弟子たちのもとからいなくなる。別れが近づいていることを弟子たちに教えようとしたものです。しかし、弟子達にはイエスの真意がわかりません。
 今日の聖書で皆さんお気づきになったかもしれませんが、イエスの弟子達への言葉にしばらくすると、という言葉が何度も出て来ます。
16節でしばらくすると、あなたがたはもう私を見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。このしばらくはギリシャ語でミクロンといいます。今でもミクロいう言葉を使いますが、これは、小さいと言う意味です。ここでは、ほんの短い期間を指しています。
 ここでイエスが言われようとしていることは、この後、イエスはユダヤの指導者にとらえられて、十字架にかかり、命を奪われますが、3日後に復活する、そのことを言っています。
 しかし、弟子たちはその意味がわからずに、17節でそこで、弟子たちのある者は互いに言った。しばらくすると、あなたがたは私を見なくなるか、またしばらくすると、私を見るようになる、とか。父のもとに行くとか言っておられるとは、何のことだろうと、言ったとあります。
 弟子たちがイエスのこの言葉の真意を知るのは、イエスの十字架と復活の後です。
 さらに20節でイエスははっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わると言います。弟子たちは、自分たちの師であり、また救い主と信じていたイエスが、逮捕され、十字架につけられたことで、悲嘆に暮れ、どうしたら良いか分からなかったと思います。また、イエスを裏切ったと言う罪悪感をもつことになります。
 またイエスの死はユダヤの指導者にとっては、表面的には勝利であり、喜びであったかもしれません。しかし、本当に勝利したのは、十字架から復活されたイエスであり、人間の罪、そのことによって定められた、死から勝利したということです。
 弟子たちの喜びとは、イエスが死から復活されたことだけでなく、復活されたイエスは天に上られますが、助け主、弁護者であられる聖霊を送ってくださる、聖霊による到来の意味もあります。
そのことが22節でところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、私は再びあなた方と合い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
 ここで言われていることも、復活における出会いと共に、聖霊における到来です。聖霊における到来によって弟子たちは力づけられ、生前のイエスの言われていたことを、全て理解することになります。
 聖霊の到来によってイエスの啓示の出来事がすべて明らかになります。
23節で、その日には、あなたがたはもはや、私に何もたずねない。はっきり言っておく。あなたがたはわたしのなによって何かを父に願うならば、父はお与えになると言います。
イエスは今までは弟子達と一緒に行動していたので、イエスと神は一体であり、イエスの名によって願う必要はありませんでしたが、イエスが天におられることにより、イエスの名によって願うことが出来ると言うことです。
イエスは聖霊を私たちに送ってくださり、イエスの名によって願うことによって、与えられ、私達は喜びで満たされると言います。
 弟子たちがこの言葉によって、勇気づけられるのはイエスの死と復活の後ですが、この言葉を弟子たちは思い出して勇気づけられたと思います。
 私達の今の状況は、試練ですが、今まで当たり前のように捧げることのできた礼拝が、いかに尊いものであったかが今知ることが出来ると思います。
 悲しみが喜びに変わる。開けない夜はない。止まない雨はないといいますが。
次週の礼拝はペンテコステ、聖霊によって、この世界に教会が誕生した出来事です。聖霊は今も私たちを助けて下さる。悲しみが喜びに変わる。私たちを一人にはしておかない。その事を信じたいと思います。


           聖霊の働き(20517)    ヨハネ16:b-15
前回、15章18節から27節で、イエスは弟子たちに、この世から迫害を受けることを告げました。それは弟子たちがイエスを受け入れ、信じたことが理由でした。弟子たちがイエスを信じたことで、彼らはこの世に属していない。イエスの仲間であるから、イエスが迫害されるように、弟子達も迫害されると言うことです。この世とはイエスを信じない者、受け入れない者、またイエスを迫害する者であり、それはユダヤ社会そのものを表しています。
 イエスがこのように、弟子たちが迫害を受けることを語ることは、イエスが父のもとである神のところに帰る時が近づいたことによるものと、もう一つはそのような迫害がおきても、それが何故おきるかを説明し、迫害に耐えるように心づもりをし、弟子たちが躓かないようにするためでした。
 イエスが父である神の元にかえる。その時が近づいたことで、イエスは弟子達と別れる。弟子のそばにイエスはいなくなる。イエスが弟子達と共にいれば、そのような事を語る必要はありませんが、弟子達だけになって、どのように行動すればよいかを教える必要があったということです。
そのことを16章4節bで初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである、という言葉で語っています。ここで初めからとは、ヨハネ福音書の初めからであり、イエスが公生涯を開始し、弟子達と出会った時からです。その時から受難前に至るまで、弟子たちはイエスと一緒にいました。
 一緒にいる間、イエスは、人の子が上げられることについて語りました。それは、イエスの栄光を預言するものでした。しかし、その栄光が十字架という形をとることについては、弟子達は、予想もしなかったことです。しかし、イエスはここで初めて真実を語ることになります。そして、弟子達もイエスと同じ道をたどることを明らかにします。
 5節で今わたしは、わたしをお遣わしになった方の向こうに行こうとしているが、あなた方はだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。弟子たちは、イエスが御自身を派遣した方、父のもとに帰って行くことを理解したので、もはやだれも、尋ねようとはしないと言うことです。 弟子たちは、イエスのこの言葉を聞いて悲しんだと思いますが、イエスは、このことが弟子の為になるといいます。
そのことは7節で、しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者はあなたがたのところに送る。ここで弁護者と言われるものは聖霊を指しています。また助け主と言われるものです。ここではイエスが父のもとに帰る、去って行けば、そのことによって弁護者、助け主としての聖霊が弟子たちの所に来る。そのことを言っています。
 弁護者としての聖霊の働きによって3つの事が明らかにされると言います。
8節のその方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにすると言います。ここで弁護者という法廷用語が出て来ます。ここでは法廷の意味があります。それは、この世、人間における法廷ではなく、神の法廷です。神が裁くと言うことです。そこで、弁護者である聖霊は何が罪であり、義であり、裁きであるかをはっきりさせるといいます。それはまた世の誤りをも明らかにするものです。
 罪とは神から派遣されたイエスを信じないことであり、またヨハネの教会が宣教し、イエスを証しているのに、そのことを信じないことです。義とは、イエスが父のもとに帰り、弟子たちがイエスを見なくなることです。イエスは父のもとに帰ることによって、地上の弟子達の目に見えなくなりますが、弁護者、助け主である聖霊によって、その栄光が明らかにされます。弟子たちは、その父と子の栄光に与ることができます。
この世、ユダヤ人は、十字架につけられたイエスを神に呪われた者と考え、その弟子達、ヨハネの教会をも異端とみなします。しかし、聖霊によってイエスと弟子達、さらにヨハネの教会をも正しいものであることを明らかにされます。イエスの死は、世が思っているのとは違って、敗北ではない。イエスの死は神の正しさを証明するものです。そのことはイエスの業によって明らかにされます。
 裁きとは、この世の支配者が断罪されることです。この世の支配者とは、ユダヤの指導者を指していると考えられます。事実、イエスは十字架において、彼らに裁かれました。しかし、弁護者である聖霊は、彼らこそが裁かれる者であることを明らかにします。イエスの天への帰還による栄光の啓示は、この世の策略を打ち砕くものです。
 ヨハネの教会も、福音書の書かれた時代、敵対するユダヤ教会から迫害を受けますが、神の法廷においてイエスとイエスに属する者が勝利することを明らかにします。
 地上のイエスの時点で、弟子たちの無理解が指摘された後、12節から15節では、弟子達の共同体、ヨハネの教会を真の理解に導く聖霊の働きが、再び取り上げられることになります。真理の霊は、弟子達を導いて真理をことごとく悟らせる。それは同時に、世の虚偽を暴露することでもあります。そして、真理の霊はイエスにおける神の啓示に新しいことを付け加えることではなく、あくまでも、イエスの栄光の出来事、十字架の受難、復活、天に上げられることを告知するものです。
弁護者である聖霊をどのように理解するのか、それは復活後のイエスが父のもとに帰る。弟子たちはイエスという指導者を失い、彼らはどのように生きて行けば良いのか。そのような中で、助け主としての聖霊を送ってくださると言います。聖霊はイエス亡き後、イエスの言葉を語り、思い起こさせるものとして描かれます。
 福音書記者はイエスの死、復活、昇天を終わりではなく、信仰共同体の新しい生の始まりでもあります。イエスの死は弟子たちを孤児にするものではありません。イエスと神は聖霊を信仰共同体である教会に送ります。イエスは世を去りますが、聖霊はイエスを信じる者を永遠に支え続けます。
 聖霊の働きの中心は、イエスの人格と出来事の意味を正しく理解し、その意味を告知することにあるとしています。福音書記者自身、その聖霊に導かれて、この福音書を執筆しました。
 12節の言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなた方は理解できない。この言葉はイエスの地上の間の教えが弟子達には理解できないことを言っています。聖霊は、イエスの地上での生涯の間、隠されていた事実を啓示するものです。イエスの栄光が完全に明らかにされるためには聖霊が必要であると言うことです。
 15節では、父と子の一体性を述べています。それこそが、聖霊がイエスのものを受けて弟子たちに告げることによって、イエスに栄光を与えることの根拠になります。このような父と子の聖霊の一致は、後の三位一体論に繋がっていくものです。
 聖霊は、現在もわたしたちの教会において働いています。それはイエスを知り、まだイエスを知らない人に、信仰に導く働きです。これはイエスが復活されて父のもとに帰った後、今も、2000年の間、働いているものです。
 5月31日は聖霊降臨日、ペンテコステですが、聖霊の働きによってこの世に教会が建てられました。今、わたしたちはその教会に集うことはできませんが、教会員の一人、一人に弁護者、助け主としての聖霊が働いてくださることを覚えたいと思います。

         
       迫害の予告(20510)        ヨハネ15:18-16:4a
イエスはこれまで、弟子たちに愛について語ってきました。ぶどうの木の譬を通して、その中心にあるものはイエスとつながること。それはイエスの愛に留まることであり、それが私の掟であるとイエスは弟子たちに語りました。愛することがすべてのものに優ることを語ってきました。
 しかし今日の聖書でイエスが語ることは、その反対である、憎しみです。今まで、愛を弟子たちに語っていたイエスが憎しみを語ることは、そのことが逃れることのできない現実であり、そのことが、これから起こることを、イエスは予め弟子たちに伝えておくことが必要であると考えたからでした。
 初代キリスト教会の伝道が最初から順調に行ったわけではなく、聖書を読みますと、それは苦難や迫害の連続であったことが分かります。その苦難や迫害の根底にあるものは無理解と憎しみです。では、だれが、だれを憎むのかというと、憎まれるのはイエスや弟子たちであり、憎むのはこの世であるとされています。
 この世とは、ヨハネ福音書において多く用いられる言葉です。この世は一般的に被造物世界を指すと見られる場合もありますが、ヨハネ福音書において大多数は、神あるいはイエスに敵体、反抗する世界、力、勢力を指しています。
 このように神、イエスに敵対する勢力は、イエスが弟子たちと愛において一体性にあるなら、イエスがこの世に憎まれたように、弟子たちもこの世に憎まれるといいます。
 そのことが18節で、世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前に私を憎んでいたことを覚えなさいという言う言葉です。ここで世と言われているのは、イエスに敵対する勢力ですが、一般的にはユダヤ人を指しています。具体的には福音書の登場する群衆、ファリサイは、長老、律法学者、祭司長、下役、役人などすべてののユダヤ人を指していると考えられます。
 ユダヤ人たちは、イエスを理解することができなかった。それは彼らがこの世に属する者であったということです。ですからイエスを迫害し、十字架に架けることをしました。そのイエスと同じように弟子たちも迫害を受ける。それは弟子たちがイエスと同じようにこの世に属していなかったからです。
 そのことが19節で、あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。私があなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのであるとの言葉です。
 このとはヨハネ福音書においては、伝道の対象ですが、またイエスを拒むものであることが言われます。イエスはこの世を愛されましたが、この世はイエスを受け入れることができなかっイエスを受け入れることができないということは、イエスをお遣わしになった方を知ろうとしない。受け入れることができないということです。そのことがイエスと弟子たちとの一体性において、弟子たちへの迫害へとつながっていきます。21節で、しかし人々は、私の名の故に、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。私をお遣わしになった方を知らないからである。
 イエスはユダヤ人に御自分が神から遣わされたものであることを、数々の奇跡、しるしというものを多く示されました。イエスはカナでの婚礼における水をぶどう酒に変える奇跡から、病人の癒し、5千人給食の奇跡、ラザロの復活など、多くの奇跡を行いました。しかし、その業を見ても信じない。この世といわれるユダヤ人の罪は重いと言います。
 そのことが24節で、だれも行ったことのない業を、私が彼らの間で行ったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見た上で、私と私の父を憎んでいる。この業とはイエスの奇跡と共に、イエスの十字架と復活も含まれています。そして、そのことが25にあるように律法で預言されていたことの成就であるといいます。それは、『人々は理由もなく、私を憎んだ』と、かれらの律法に書いてあることが実現するためであると言います。
 これは詩編35編19節、69編5節からの引用です。
 このことは、世、ユダヤ人の憎しみが定められた出来事、神の計画であるということです。救いは旧約聖書において完成されたものとはいえず。救いはイエス・キリストまで待たねばなりません。旧約聖書はそのイエスを証ししているものです。そのようにイエスの弟子というだけで、迫害を受けるものたちに、イエスは救いの手を差し伸べるといいます。
 それは真理の霊といわれるもので、26節で言われる、私が父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとからでる、真理の霊が来るとき、その方が私について証しをなされるはずであるといいます。ここではイエスは真理の霊、聖霊を送ってくださる。この世において先に選ばれたものは聖霊に力づけられ、証をされる。今や、弟子たちは証人として立つことが述べられています。
 また16章1節で、初めからこれらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないようにするためであると言います。今日の聖書で言われる迫害とは、イエスの生きた時代の迫害と共に、ヨハネ福音書の書かれた時代の迫害をも述べているものです。
 16章2節には、人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺すものが皆、自分は奉仕していると考える時が来る、といいます。迫害の予告躓くものを出さないためでした。ここで会堂追放ということが言われます。これは紀元90年頃のヨハネ福音書の書かれた時代教団と、ユダヤ教会堂との対立をのべているものです。
 イエスを神、あるいは神と等しい者であることを告白することによって、それがユダヤ教の唯一神信仰と対立することで、ユダヤ教会堂を追われ現実を語っているものです。イエス亡き後、弟子たちは聖霊づけられ、困難の中、伝道していきました。その中で多くの者が殉教しました。ペトロやヤコブなどの直弟子、パウロも殉教したと言われています。
 さらに、ヨハネ福音書の書かれた時代も、ユダヤ教会堂との対立において、ヨハネ教団を離れ者があった。そのような歴事実、さらに現在の困難な状況を踏まえて、動揺する信徒に、このような迫害が起こるのは、キリストを信じる者であるならば当然のことであると、力づけ、励ましているものであると思います。
 現在の教会の状況も困難な状況です。コロナウイルスという見えない敵と戦っています。教会員が共に礼拝を捧げることのできない状況です。しかし、このような状況であるからこそ、ぶどうの木の枝のように、イエスとしっかり繋がっている者でありたいと思います。このような時こそ、教会の力が試される時であると思います。今も、聖霊においてイエス・キリストは教会におられます。私たちの為に聖霊を送ってくださいます。そのことを信じて、私たちの為に十字架にかかってくださった、イエス・キリストの愛とつながり、その愛の中に留まるものでありたいと思います。

イエスはまことのぶどうの木(20503)       ヨハネ15:1-17
旧約聖書においてイスラエルは、よく、ぶどうの木に譬えられました。それはパレスチナにおいてはオリーブと共にぶどうは昔から多く栽培されており、そのような譬えの方が聞く者が理解しやすいと考えたからであると思います。
イザヤ書5章2節では、神はぶどうの手入れを良くし、良いぶどうが実るのを待ったが、実ったのは酸っぱいぶどうであったことが記されています。それはイスラエルが神の言う事を聞かなかったことの結果でもありました。そのような旧約聖書の譬えの引用から、今日のぶどうの木の譬えは来ているかと思われます。
1節で私はまことのブドウの木、私の父は農夫である。ここでイエスは御自分のことを、まことのぶどうの木であると言います。そして御自分の父は農夫であるといいます。ここではぶどうの木が旧約のイスラエルから、イエスに譬えられています。そして農夫である御自分の父は神であるということです。
さらに2節で私につながっていながら、実を結ばない枝は、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものは皆、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる、と言います。ここで言われる幹から延びる枝は弟子たちのことを譬えています。
 今日の聖書は、農夫である神、ぶどうの木であるイエス、そして枝である弟子たちの三様をぶどうの木の譬えとして、その結びつきの意味を描いているものです。その結びつきと、一体性において良い実を結ぶことが言われています。
 しかし、2節でイエスは私につながっていながら、実を結ばない枝は皆、父が取り除かれる。この言葉は現実にぶどうを栽培するときの剪定のことを指しています。ぶどうの栽培において剪定が重要であるといいます。ぶどうの木が良く実を結ぶように世話をする農夫は、古い枝と実を結ばない枝を切る、剪定する必要がありました。ぶどうの木は剪定されないと多くの実をつけません。
この言葉は父である神の裁きの意味合いの強いものですが、これはイエスを裏切るイスカリオテのユダを暗示していると言います。さらにヨハネ福音書の書かれた時代、ヨハネ教団がユダヤ教から異端の宣告を受けると、キリスト教から離れてしまった。それはまことのぶどうの木であるイエス・キリストに本当に結びついていなかったと言えます。
しかし、イエスは裁きを語られますが、3節で私の話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっているといいます。この言葉は13章10節のイエスが弟子たちの足を洗った、洗足の出来事を思い起こさせるものです。最後の晩餐の席で、弟子たちの足を洗われたイエスは「すでに体を洗った者は、足の他は洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ」、と語られました。
ここでも主にある者は、主イエスの言葉によって清くされている。このことはイエスのすべて、それは福音と置き換えることが出来ますが、そのことによって、すでに清くされていると言います。
そのことが現実として、為されていることが教会であると思います。教会はイエスの体であり、それはぶどうの木として譬えられていますが、私達はそのイエスの体であるぶどうの木につながる枝であります。
それは4節の、私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなさい、と言います。
そのことは、教会はイエスに養われる群れであることを言っています。私達はイエス・キリストを離れては何もできない。豊かに実を結ぶことのできない存在です。それは信仰といっても良いものです。イエスにつながっていれば、信仰が豊かに実を結ぶことを言います。
ではイエスにつながるということは、どのようなことなのか。イエスにつながるということは、イエスを信じることです。このつながるという言葉の原語は留まるという意味があります。そこから。このつながるという言葉はイエスの愛に留まりなさいと言うことです。イエスの十字架の愛の中に留まりなさいと、いうことです。しかし、イエスにつながっていない者、それはイエスの愛の中に留まることのできない者ですが、その者は裁かれると言います。
そのことが6節で、わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう、と言います。ここでイエスは終末の裁きを語っているのではなく、現在イエスにつながっているかどうかによって裁きが下されることをいいます。それは教会からの追放ということではなく、神の救いの出来事、イエスの啓示を信じるか否かによって、イエスの愛の中に留まることが出来るかによって、救いか、滅びに分かれるということです。
父と子と弟子の一体性の中心にあるものは愛であり、そのことを9節から10節で父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛してきた。私の愛に留まりなさい。私が父の掟を守り、その愛に留まっているように、あなたがたも、私の掟を守るなら、私の愛に留まっていることになる、と言います。
ここでイエスが言われる私の掟とは、12節にあるように、私があなたがたを愛したように、互いに愛しなさいと言う、ことです。そして、その究極の愛が13節の友の為に自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はないと、言うことです。それは私達の為に御自分の命を捧げられた愛、それは十字架の愛に根差すものです。
ぶどうの木の譬えの中心にあるものは、愛における一体性です。それはイエスの愛に留まることです。それがイエスと繋がって行くことです。それはイエスの体である、教会において為されるものです。そのことを感じ、知ることができるのは礼拝です。
今、私達はその礼拝を教会員の方々と捧げることのできない状態が続いていますが、私達の罪の贖いの為、救いのために十字架に架かったくださったイエスの愛、神の愛を信じ、祈り求めるものでありたいと思います。
神はその為に、私たちを選んで下さいました。このような困難な状況にあっても、その神の愛に、ぶどうの枝が木にしっかりとつながっているように、つながり、留まるものでありたいと思います。




       真理の霊(20426)    ヨハネ14:15-31

ここでイエスが何を言おうとされたのか。やがてイエスは父のもとに帰る。そうすれば弟子達だけが残される。師であるイエスを失った弟子たちに、どのようにすればよいかを、イエスが語ったものです。
18節でイエスは、わたしは、あなたがたを、みなしごにしてはおかない。あなたがたの所に戻ってくる。イエスはやがて父のもとに帰りますが、あなたがたを一人にしてはおかないといいます。ここで言われる、あなたがたの所に戻ってくるというイエスの言葉は終末におけるイエスの再臨というよりも、聖霊における現臨という意味合いの強いものです。
 それは15節における、あなたがたは、私を愛しているならば、私の掟を守る。というイエスの言葉が最初にあります。それはイエスが洗足で互いに足を洗うということを弟子に教えた行為です。それは13章34節のあなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。ということです。
 そのことを守るならば、イエスは16節でわたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。と言います。この弁護者という言葉は、パラクレートスと言いますが、本来の意味は傍らに呼ばれた者という意味で、法廷での弁護者、代弁者を表す言葉になりました。しかし、慰めを与える者、教えを与える者という意味も考えられ、広い意味で助け主と言うことも考えられます。
 しかし、ヨハネ福音書においては、聖霊におけるキリストの現臨ということを考えると、福音書記者は、現在、ヨハネ共同体の中で、イエスの業を引き継いでいる聖霊をそのように呼んでいると考えられます。
そしてこの霊は17節で真理の霊であると言います。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。この弁護者、助け主である霊は、真理の霊であるといいます。真理の霊であるということはイエスが何者であるかを人々に悟らせるものです。
 しかし、世はこの霊を見ようとも、知ろうともしなかった。この世とはイエスの時代のユダヤの宗教指導者、ファリサイ派や律法学者であり、またヨハネ福音書が書かれた時代のユダヤ教とキリスト教の対立の中のユダヤ教であると考えられます。しかし、ヨハネの教会に属する者は霊を通してイエス・キリストを知り、見、そして信じる者であることを言います。
イエスは、この後、十字架に架かるのですが、そのイエスの死の現実の中で、喪失感に陥いるであろう弟子たちに対して、気落ちすることはないと言う慰めの言葉に於いて、イエスはあなたがたをみなしごにしてはおかない。あなたがたの所に戻ってくると言います。これは十字架の後の復活の意味も含まれていますが、復活されたイエスが天に上り、父の元に帰る。やがて聖霊を送ってくださる、聖霊における現臨の意味の強いものです。
また、この言葉はヨハネ福音書の書かれた時代のヨハネ教団の現実をも表している言葉だと考えることができます。イエスを神、主であることを告白することにおいて、ヨハネの教会はユダヤ教の会堂から追われることになった。そのような中での慰めと励ましのことばが、このあなたがたをみなしごにしては置かないと言う言葉であると思います。
  19節の、しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなたがたは私を見る。私が生きているので、あなたがたも生きることになると言います。ここでしばらくするとは、終末的に用いられているのではなく、イエスの十字架の死と復活の出来事を指していると考えられます。イエスが死んで葬られたならば、世はもはやイエスを見ることはできない。しかし弟子たちに対してイエスは復活の体で表われるので、弟子たちはイエスを見ることが出来ると言うことです。
20節のかの日には、わたしが父の内におり、あなたがたが私の内におり、私もあなた方の内に居ることが、あなたがたに分かる。と言います。かの日とは終末論的な言葉ですが、ここでは未来の終末論的なイメージはなく、父の子の一体性が弟子達、共同体である教会にまで及ぶことが言われています。
イエスの復活において、イエスと弟子たちの交わり、結びつき、共存は、父なる神から御子イエス・キリストを通して教会へと至る、神は生きておられると言う連続性の中にあるものです。そして、その一体性の中心にあるものは、イエスが何度も繰り返す掟、その中心にあるのは愛であることが言われます。
それは21節で私の掟を受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である。私を愛する人は、私の父に愛される。わたしもその人を愛して、その人に私自身を表すと言います。ここで言われることも、愛による父と子と共同体、教会の交わりは、連続性、一体性を持つことが言われます。愛が無ければ何事もなされず、何事も起きはしないと言うことです。
弟子達には、イエスはこのような言葉でご自分を表しますが、そうでない者、それは世という言葉で表しますが、イエスを否定し、またイエスを受け入れないものがいることを、22節でイスカリオテでないユダの方が、主よ、わたしたちにはご自分を表そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、何故でしょうかと、疑問を挟みます。この世とはイエスに敵対する勢力ですが、それらの者にご自分を啓示なさらないのは何故ですかと問うていると言うことです。
そして、その問いに対する答えの中心にあるものは愛ということです。イエスを受け入れないものは、愛を中心とした、神と父と教会という共同体の交わりの中に入ることができない。
そのことを23節から24節で、私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人の所に行き、一緒に住む。私を愛さないものは、私の言葉を守らないと、言います。これらすべての事は聖霊の力によってなされるものです。それは弁護者、助け主としての聖霊です。
そして14章27節からのイエスの決別説教の最後の言葉は、あなたがたに平和を与えるというものです。この平和という言葉はヘブライ語のあいさつ、シャロームと関わりのある言葉です。イエスが地上を去るに当り、弟子たちは不安に陥るかもしれないが、聖霊により助け主を送ってくださる。そのことにおいて弟子達、これは私達、現在の教会をも含めて、平和、平安を与えて下さる。満ちたり、不安を感じることはない。魂の安息を得られると言うことです。
これらはイエスがこの世界に来られたことで為されるもので、究極の救いです。それはイエスの十字架と復活によって為されたものですが、今でもイエスは助け主としての聖霊を送ってくださり、神と私達との橋渡しをしてくださる方です。それは真理の霊であり、神の啓示を私たちに知らしめてくださるものであり、私たちを平安と救いを与えて下さるものです。
 今、この世おける教会も新型コロナ肺炎で不安な時を過ごしていますが、イエスは今も教会に聖霊として現臨され、助け主として、真の霊として、この時を働いて降る方であることを信じたいと思います。


   イエスは父に至る道(20419)   ヨハネ14:1-14

今日の聖句は弟子たちとの別れが近づいていることを見越して、イエス様が弟子たちに語った言葉です。その前にはユダの裏切りの予告、ペトロの否認、イエスの別れの言葉があり、弟子たちは動揺していたと思います。その中で語られたのが今日のイエスの言葉です。それは弟子たちとの別れを前にした決別説教と言われるものです。
 1節で心揺れる弟子たちに対して、心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、私をも信じなさいと、といいます。イエスは彼らの不安に対して信じること、信仰することの大切さを言っています。そしてイエスを信じることは神を信じることであり、イエスを見ることは神を見ること。神とイエスとの一体性が強く宣べられます。
 イエスと神との一体性、結びつきを強く示しているのが、2節の私の父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなたがたのために住む場所を用意しに行くと言ったであろうか、との言葉です。ここでは十字架に上げられて天、父のもとに帰るイエスの目的が語られています。それは、父がいる天において、弟子たちの住むところを用意するということです。神から派遣され、天に帰って行くイエスは、弟子たちの為に天に住居と場所を用意し、彼らをも父と子の交わりに入れようとされます。
 さらに3節で行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなた方を私のもとに迎える。こうして、私のいるところに、あなた方もいることになる。ここでは終末におけるイエスの再臨が語られているように見えますが、ヨハネ福音書においては、マタイ、マルコ、ルカの共観福音書とは意味合いの違いがあります。
 それは聖霊におけるイエスの現臨ということです。今年の5月31日はペンテコステ、聖霊降臨日です。聖霊の働きによって、この世界に教会が出来た。そのことをお祝いするものです。イエスは十字架のあと復活され、40日弟子たちと共に行動されますが、聖霊を約束して天に帰られます。その聖霊の働きがヨハネ福音書において重要なことです。そのことをイエスが語っているものです。
 しかしこの説明で弟子たちは、イエスの真意を理解することはできませんでした。4節でイエスは、私がどこへ行くのかその道をあなた方は知っている、といいます。それについて答えたのが5節のトマスの言葉です。トマスは、ヨハネ福音書では、イエスの復活をその手に釘跡を見なければ信じないという、疑い深いトマスとして有名ですが、そのトマスが、主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか?とイエスに問います。ここでトマスは、イエスの言葉、道という言葉をそのまま地理的ないみでとらえています。ここでイエスが道という言葉で言おうとしたことは、そのような意味ではなく、イエスご自身が道であるということです。それは信仰の道であり、救いの道でもあります。
 それを端的に答えたのが6節のイエスの言葉です。イエスは言われた。私は道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。との言葉です。イエスこそは神を知り、神の思いを知る唯一の方である。イエスを知ることは神を知ることであるということです。神の一人子であるイエス。イエスは神から遣わされた方であるからこそ、イエスは、私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことは出来ないと、言えるということです。ここでも父である神と、子であるイエスとの一体性が言われます。
 そして7節であなたがたが私を知っているなら、私の父を見ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ていると言います。ここで知る、見るということは、信じるということとほとんど同じ意味です。イエスの為された業と教えが、神の御旨と業を示しており、このことを理解するのは信仰のみであるということです。見るということは、外面的に神の姿を人間の目で見るということではありません。旧約においては神を見た者は死ぬと言われました。出エジプト記33章20節の神とモーセとの出会いにおいて、あなたは私の顔を見ることはできない。人は私の顔を見て、なお生きていることはできないからであると、神は言われました。しかし、私たちはイエスにおいて神を見ていると言えます。
 知るということも単なる知識ではなく、神との交わり、人格関係です。それはイエスとの出会いによって為されるものです。そこには信じるか、信じないとの決断が求められるものです。しかし、ここでも弟子の一人であるフィリポがトマスと同じように愚かな質問をします。8節でフィリポがイエスに、主よ、私たちに御父をお示しください。そうすれば満足できますと言います。フィリポはイエスに直接神を見せてくださいと願いました。それはすべての人間にとって大きな願望であるかもしれません。しかし、神の被造物である人間が神を見たいなどどいうことは愚かな願いであると言えます。
 その願いに対してイエスは怒ります。9節でフィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。私を見た者は、父を見たのだ。なぜ、私たちに御父をお示しくださいというのか。ここでもイエスは父である神と同一であり、一体であることを再度述べます。10節で私が父の内におり、父が私の内におられることを、信じないのか。私があなた方に言う言葉は、自分から話しているのではない。私の内におられる父が、その業を行っておられるのである。といいます。
 ここで言葉と業という言葉がイエスによって述べられます。言葉とはイエス語る言葉であり、それは神の言葉です。それはイエスの宣教の言葉ですが、ここで語られることは父と子の一体性、神と子の一体性が言われます。それはヨハネ教会の中心的使信でもあります。それは、ヨハネ福音書の書かれた時代のユダヤ教との対決の中で、自分たちの信仰の中心とは何かということを、はっきりと述べることでした。さらに業が言われます。業とはヨハネ福音書に記されているイエスのしるしであると考えることができます。福音書記者はしるしを行うイエスに神を見、父との一体性の根拠を見て取りました。
 さらに12節でイエスは、はっきり言っておく。私を信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。私が父のもとへ行くからであると。ここでイエスを信じる者に与えられる大きな業とは何か。これはイエスが神のもとへと帰った後に、弟子たち、それは現在の私たちの教会にも言えることですが、それは聖霊の働きと考えることができます。その聖霊の働きにおける宣教の業と考えることができます。
 イエスは父のもとに帰る前に、弟子たちに心を騒がせるな、心配ないと言います。しかし、弟子たちはイエスの真意を正しく理解することができません。それですから、トマスやフィリポが的外れな質問をイエスにします。弟子たちがイエスの真意を正しく理解するのは十字架と復活の後ですが、それでもイエスは愛する弟子たちにそのことを教えようとします。
 イエスは、私を知ることは、神を知ること。私は父に至る道であると言います。今まで神を見た者はいませんでした。しかし、イエスを通して、私たちは神を見、神を知ることができます。言が受肉された。神が人となったイエスにおいて、私たちと神との関係は決定的に変わりました。神は私たちにとって遠い存在ではなく、声を聞き、触れることさえできるできる存在です。今イエスは神のもとにおられますが、聖霊において、教会に現臨される方です。そのことから言えば、イエスは今も聖霊において働いてくださり、神と私たちを結び付けてくださる方です。
 イエスは弟子たちに心を騒がせるな、といいます。私たちは今、新型コロナウイルスで不安な時を過ごしています。礼拝もままならない状態です。しかし、教会にイエス様は見えないですが、おられます。聖霊という形で今も、この時も働いてくださいます。そのことを私たちは信じたいと思います。信じることでイエスは父に至る道であることが、真実であると知ることができます。

      キリストの復活(20412)     マタイ28:1-10
イースターおめでとうございます。
仙台市内は桜が満開で、市の中心部はもう散り始めているかと思います。しかし、仙台松陵教会の周りや、東北学院大学の泉キャンパスの桜並木は今が満開です。例年ならば多くの人達が花見に繰り出し、町はにぎやかなのですが、今年は、新型コロナウィルスの影響で自粛要請もあり、町は閑散としています。
イースターはその年によっても違いますが、だいたい3月の終わりから4月の初めに行われることが多いものです。ヨーロッパなど冬が長く、寒く、暗い地域では、イースターの頃になると、日が長くなり、太陽の日差しが強くなり、暖かくなります。それは命の輝きの時であり、動物が活動し始め、新芽が出、成長します。それは長く、暗い冬を過ごした人たちにとっては喜びの時であり、解放の時でもあります。
今、現在、ヨーロッパは日本より、新型コロナ・ウイルスの被害が大きく、教会の多くは、教会を閉じていることと思います。人々が長い冬から解放されて活動的になるのに外出を制限され、重苦しい時を過ごしていると思います。世界中が、このような苦難の時を過ごしていますが、キリスト者にとって最大の喜びであり、希望である、復活の出来事を共にかみしめてみたいと思います。
イエス様が、ゴルゴダの丘で十字架刑に架けられたのは、ユダヤの過越しの祭りの時でした。それは現在の3月の終わりから4月の初めに当ります。イエス様はローマの反逆者として、死刑のなかでも最も残虐な十字架刑によって亡くなりました。
イエス様を死んでも見捨てないと言った弟子たちは、イエス様が逮捕されると散り散りになり身を隠していました。イエス様をダビデのような救い主と信じた人々にとって、信じられないような惨めな最後でした。弟子たちはそのことを信じることが出来なかったでしょう。そのような中で、その死の最後までイエスに従ったのは何人かの女性でたちでした。
イエス様が十字架に架けられたのは金曜日でした。金曜日の日没から土曜日の日没までは、ユダヤの安息日ですから何もすることはできません。イエスに最後まで従った女性たちは、安息日の明けた週の始め、日曜日の明け方にイエスが葬られている墓に向かいました。
そのことが1節で、さて、安息日が終わって、週の初め日の明け方に、マクダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に言った、とあります。ここには2人の女性がでてきます。マクダラのマリアとは福音書すべてに出てくる名前ですが、ルカ福音書8章2節では7つの悪霊をイエス様に追い出してもらった女性として、出て来ます。またマリアとはイエスの母マリアではないかと言われています。
イエスの葬りは祭司長やファリサイ派の人達によって周到に準備されました。
それはマタイ福音書27章63節から64節にあるように、閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていた時、自分は3日後に復活すると言っていたのを、私達は思い出しました。ですから、3日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、イエスは使者の中から復活した、などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになりますと、そのことを心配して、イエスの墓には石で封印をし、番兵をおいたとあります。
そのような状況の中で2人の女性はイエスの墓に向かいました。この2人の女性が何のためにイエスの墓に向かったかは、マタイ福音書には記されていません。マルコ福音書では女性たちがイエスに油を塗りに行くために香料を買ったとありますが、マタイ福音書でも同じようにイエスの葬りの準備を自分たちの気のすむようにしたかったかもしれません。
2人の女性が墓を見に行くと、2節で、すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座りました。地震は神の顕現、現れであり、天使は神の使いです。その天使の姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かったといいます。それを見て番兵は恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになったと言います。イエス様の復活に対して、番兵が死人のようになった、とは面白い対比であると思います。
弟子たちはすでに逃げ出していますから、この2人の女性の行為は、最初の主の復活の証人となりました。当時、ユダヤ人の法廷では、女性たちは法的資格のある証人とは見なされていなかったので、このことは驚きのことです。その出来事はイエスに付従った女性たちにとっても驚きのできごとでした。
イエス様は前もってご自分の復活を予告されています。マタイ福音書16章21節には、イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、3日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められたとあります、それに対してペトロがイエスをいさめたということが記されています。
そのことを女性たちが知っていたかはわかりませんが、知っていたとしてもそのことが現実に起きることが信じられないことであったと思います。天使は女性たちに驚くことはないといいます。そして女性たちに命じます。7節でそれから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。「あのかたは死者の中から復活された、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」との使信です。
8節で婦人達は、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走っていったとあります。復活の出来事は女性たちに喜びと共におそれでもあります。
復活されたイエス様は、その女性たちに現れます。ガリラヤにこのこと知らせるために急いでいる、女性たちにイエス様は現れます。9節ですると、イエスが行く手に立っていて、おはようと言われたので、婦人達は近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏したとあります。ここでイエス様がおはよう言った言葉は、喜ぶという意味があります。イエス御自身が弟子たちに喜びなさいと言っているということです。
イエス・キリストが十字架に架けられたことで、気落ちし、打ちひしがれている弟子たちに喜びなさいと言っていることです。自分たちがメシア、救い主であると思っていたイエス様が、みじめに十字架の上で死んだ、そのイエス様が今、自分の目の前に現れている、そして、喜べとあいさつを送る。そして、弟子たちに、イエス様は先にガリラヤで待っている。それはイエス様を裏切ったと思っている弟子たちにとって、喜びの出来事です。
聖書を始めて読む人達にとって、このイエス様の復活の出来事はすぐには信じられないことであると思います。科学的な常識からすれば、信じられないことです。しかし、信仰は科学ではありません、信じるか、信じないかと言うことです。イエス様を裏切った弟子たちは、このイエス様の復活に力づけられ、殉教覚悟で伝道することになります。イエス様の復活の出来事は罪の為に死すべき人間が、イエス様が復活されて、死に勝利されたことで、私達もそのことを信じることで、永遠の命の希望を与えられた出来事です。今、世の中は新型コロナ・ウイルスの影響で重苦しい、不安の時を過ごしていますが、この時、死に勝利された、イエス様を復活させられた神の力、神の愛を信じて歩みたいと思います。