「礼 拝 説 教」
          
聖 霊 降 臨 後 第 二 十 五 主 日 2010年11月14日
「見てはいなくても」ルカによる福音書20章27節〜40節






今週は、道南ブロック交換説教日でしたので、小樽教会で行った説教を掲載いたします。


  ルカによる福音書20章27節〜40節

◆復活についての問答
20:27 さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。
20:28 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
20:29 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。
20:30 次男、
20:31 三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。
20:32 最後にその女も死にました。
20:33 すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
20:34 イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、
20:35 次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。
20:36 この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。
20:37 死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。
20:38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」
20:39 そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。
20:40 彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。






説     教  

日本の古い大衆演芸に、講談、というのがあります。この講談をする人を講談師と言います。さて、この講談とはどんな演芸かと言うと、例えば歴史物とか、怪談物などを出来るだけ臨場感あふれる語り口で人々に聞かせる、話芸の一つです。そして講談師は、よりリアルに語りあたかもその現場にいるかのように、またその出来事を見ていたかのように語るのが講談師の腕の見せ所です。ですから川柳に「講談師、見てきたようなことを言い」というのがあります。

さてこの川柳にもありますように、講談師は実際には現場に行ったこともなく見たこともないが、あたかもそこに居て、見ているかのように語ることを、牧師の説教や信徒の証しに当てはめて考えてみました。つまり説教や証しは、聖書の御言葉を解き明かすのですが、聖書には様々なことが書かれています。しかも説教では聖書の御言葉の意味だけを説明するのではなく、ときには書かれている出来事を、より分かりやすく、臨場感豊かに語ることも必要です。まさに「見てきたようなことを言う」ことがあります。

でもここで一つ大きな問題があります。それは、見てはいなくても、過去の出来事であれば文献を調べることによって、ある程度の事実が分かりますので、それによって臨場感を持たせて語ることが出来ます。しかし聖書には、世の終わりや・キリストの再臨・天の御国など、誰も見たり経験したりしたことのないようなことも書かれています。牧師はそのような事柄も臨場感を交えて話すことがあります。でもそんなことが本当に出来るのでしょうか。また仮に出来たとしても、それが聴衆に伝わるのでしょうか。つまり牧師は、まだ見ていない世の終わりや天の御国を、見てきたように臨場感を持って語ることが出来るだろうかということです。

しかしそれは可能であることを聖書は示します。そもそも聖書に書かれてあることは、すべて信仰によって理解するものです。また信仰がなければ、聖書は理解することも信じることも出来ません。さらにヘブライ人への手紙11章1節には「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」とあります。ですから信仰によって牧師は、見てはいなくても、世の終わりや天の御国やキリストの再臨を知り、そして語ることが出来るのであります。

しかしだからといって、見ていないことを自分で勝手に想像して語ってはなりません。そうではなく天の御国をすでに見ている方がおられ、天の御国を最もよく御存知の方がおられます。私たちはその方に聞いて、信じて語るのです。そのことについて使徒パウロも、ローマの信徒への手紙10章17節で「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」と記しています。つまり主イエス・キリストが語って下さることを聞き、それを信じる信仰によって、私たちは、見てはいなくても、天の御国の事実を確認し生き生きと語ることが出来るのであります。

そして主イエスが、私たちがまだ見ていない天の御国について語られたのが、本日の福音書の個所である、ルカ20章27節〜40節です。この個所では復活を信じていないサドカイ派の人からの質問に答えるかたちで語っています。つまりある人に嫁いだ妻が子供が出来ないうちに死んだとき、次男など7人の兄弟と結婚して子供をもうけようとしました。でもいずれの兄弟とも子供は出来ないままその妻も死にました。そうするとこの妻が復活したとき誰の妻として復活するのか、という質問です。この質問は、きわめてこの世的であり、私たちが復活したとき天の御国において、自分たちの家族や知人・友人などとは、どのような関係になるのかが気になるのは当然のことでしょう。

でも主イエスは、私たちが全く想像もしない答えを与えられました。すなわち34節〜36節で「イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」と語られ、さらに38節では「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」と教えられます。

すなわち天の御国は、信仰によって死者の中から復活するにふさわしいとされた人々が居るところであり、それらの人々は永遠の命に生きる人であって、もはや死ぬことのない人々です。しかも天の御国では、めとったり嫁いだりするような人間関係ではない。そうではなく、天使と同じような存在として生きており、神の子としての人間関係だけがあります。

また天の御国は、神の支配が完全に行われている場所であり、そこに生きる人々は、神の支配のもとにあるが故に、もはや罪に陥ることはありません。天の御国は、常にそして永遠に神の恵みと救いと平安が実現し完成している所。 これが、天の御国です。・・・見てきたようなことを言い・・・・

そして、見てはいなくても、語ることが出来るのは、天の御国を見ており知っておられる方から聞いて信じたからです。だから説教者は語ることができるし、信仰者は信じることができるのです。なぜなら、私たちは信仰によって、まだ見ていない神の事実をキリストの福音を通して確認することが出来るからであります。

この天の御国に、私たちが招かれていることを喜びつつ、今日からの新しい一週間の日々を歩んで行きましょう。

アーメン



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