ヘブライ人への手紙3:1-6 「今こそ、祈り合おう」
 
 緊急事態宣言が出てから、2度目の日曜日です。感染の収束が見えない中で、政治、医療、経済、教育、家庭……多くの分野と場所で混乱が起こっています。その中で、私たちひとりひとりの信仰の生活を支えるものは、何か。皆さんが、そのことを、日々問うておられることでしょう。と同時に、緊急事態の中で私たちの信仰も、また問われています。
神が、このような事態の中にある私たちに、いのちの言葉をくださいます。
「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」
 
「天の召し」というのは、神から呼ばれているということです。それだけではありません。天において完成される命に招かれているという意味も持っています。「聖なる」には、神のために選び分かたれたという意味があります。私たちの馴染みの言葉でいえば、神のものとされているということです。「兄弟たち」は、私たちキリスト者のことです。そのような「わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司である主イエスのことを考えてみなさい」と、1節後半は語ります。
 「公に言い表す」というのは、信仰を明白に告白するということです。明白に告白する信仰は、神から遣わされた「使者」であり、「大祭司」である主イエスへの信仰です。
 「使者」は、クリスマスのことをイメージしてくださるとよいでしょう。主イエスは、神の子でありながら、人間となって、私たちのところへ来てくださった使者です。
「大祭司」は、主イエスの死と関係があります。受難日のことを思い起こしてくださればいいのです。旧約の時代の大祭司は、年に一度動物の血をたずさえて至聖所に入っていきました。イスラエルの民の罪の執り成しのためです。主イエスは、動物の血ではなく、御自分の血をもって、十字架にかかられました。
このように主イエスは、主イエスは、使者として人間となられ私たちの罪の身代わりとなり、大祭司として私たちの罪を執成してくださったのです。
 私たちは、このような主イエスへの信仰を言い表す。私たちを救ってくださる方は、主イエスしかいない。天において完成される命へ導いてくださるのは、主イエスしかいないということを告白する。これが私たちの信仰であるのです。

 「モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました」。2節の言葉です。
 ヘブライ人への手紙の宛先であった教会は、自分たちの教会を、神に導かれながら砂漠の厳しい旅をしたイスラエルの民と重ねていただろうと説明している人がありました。迫害の厳しさの中にあったからです。そこで2節は、神に導かれて砂漠を旅したイスラエルの民を導いたモーセになぞらえ、天に召されているキリスト者の群れを導いておられる主イエスのことを語ろうとします。
モーセは、神に忠実であった。主イエスは、モーセに勝って神に忠実であられた。私たちがたとえ、神に対して、忠実になり切れないときがあっても、主イエスはどんなときも大祭司として、私たちに代わって、神に対して真実であられ、忠実でいてくださいます。
この主イエスが、私たちの人生を支え、導き、執成していてくださいます。私たちの人生を、底の底から支えていてくださるのです。この主イエスに支えられて、私たちは、この緊急事態の中で、それぞれの家で礼拝をし、祈り、働き、学び、出来る限りのことをする。

先ほどの1節に「大祭司であるイエスのことを考えなさい」と書いてありました。
「考えなさい」とあるのは、口語訳の聖書では「思い見るべきである」となっています。カトリックのフランシスコ会訳聖書では「思いをはせなさい」となっています。信仰の思いをもって主イエスを見る。ただなんとなく主イエスのことを考えるのではなく、思いをはせる。そのような姿勢こそ、信仰だとヘブライ人への手紙は私たちに語るのです。
自分の心ばかり、嫌な事ばかりを見つめてしまう私たちです。私たちは、この弱さを死ぬまで抱えなくてはなりません。導きを信じきれない不信仰の罪を犯し続けてしまうことでしょう。しかし、主イエスをなお仰ぎ見ることができる幸いを、私たちは与えられています。不信仰な私たちの身代わりとなってくださったのが、大祭司である主イエスです。私たちは、天において完成する命に確かに召されているのです。

モーセに導かれて荒野をイスラエルの民は、40年間旅をしました。長い旅です。私たちの旅にも、渇きがあり、飢えがあります。諦めが襲ってきます。不平や文句ばかりが口からこぼれてきます。しかし、聖書は、私たちのことを十分に知った上で、それでも「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち」と呼ぶのです。「兄弟たち」、つまり私たちは一人ではありません。この荒れ野の旅は、一人旅ではないのです。主イエスと共に、そして、天に召されている仲間たちと共にある旅です。
神の使者であり、大祭司である主イエスが、私たちを支えてくださっています。このお方に救われた私たちだからこそ、互いに祈り合うことができます。病気と戦っている仲間のために、回復に向かっている仲間のために、治療にあたり看病をしている仲間のために、教育、政治、経済、行政の現場で戦っている仲間、家族のために戦っている仲間のために、今こそ、祈り合いましょう。
祈れないと思っている方があったら、どうか、仲間たちの祈りに信頼してください。そして、私たち人間にまさって、私たちの祈りを取り成してくださる主イエスを信頼してください。信じてください。私たちを、執成すために、死んでくださる主イエス。このお方が、私たちを、見捨てることはないからです。            (2020年4月19日)