[説教断片]

説教:神がなさることを待つ
    (2016年1月31日 徳田 宣義牧師)

マルコ福音書第15章33-41 

 主イエスが十字架につけられ、昼の12時になると全地が暗くなり午後3時ごろまで続いたと聖書は伝えています。この闇は偶然ではありません。人間が神の子を殺す。起ってはならないことが起こり、この世界と私たちの心が、神に背く闇を抱えているのだと示されたのです。

カール・バルトが、『和解論』の中で、人間の悪について「神に対しての反乱であり・隣人に対しての戦いであり、同時に自分自身に対しての人間の罪である」と記しています。バルトに指導を受けていた人に、エーバハルト・ブッシュという人がいます。この人は、後に、バルトの秘書を務めますが、バルトの人間の悪についての考察を受けて、「この三つのものは、相互に関連しあっている」と指摘し、次のように記しています。「したがって人間は一つの側面で違反すると、それは他の二つの面にも関係する。人間が神に敵対しているところでは、彼は隣人にとって狼となる」。神、隣人、自分、これらの関係一つが壊されると、それぞれの関係も破壊されるというのです。

 すべての人が神に与えられた命を豊かに用いて社会を作り上げるようにと神に期待され、力と知恵を与えられています。しかし、なぜ上手くいかないのでしょうか。闇を造ってしまうのでしょうか。カトリックの雨宮慧という方が、「罪とは、個々の掟に違反することよりも前に、後を追うべきものをまちがえること」だと記しています。聖書は、まず追いかけるべきお方を間違えると、その後のことも破綻すると語っているのです。人の心よりも利益や効率に至上の価値を置く現代社会。ブレーキの壊れた政治。その行き着く先は、闇であるのです。

 主イエスの叫び、エロイエロイレマサバクタニは、アラム語です。わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか、という意味です。本当は、神を忘れて、社会に、職場に、学校に、家庭に、自分自身の心の中にさえ闇を作る私たちが、神に捨てられるべきでした。

 私たちは罪人ですから、神から捨てられる恐ろしさをわかっていません。本当にわかっておられたのは、主イエスだけです。ですから、主イエスは、詩編22編を用いて、「わが神、わが神」と神に問うておられます。神を呪うのではありません。苦しみの中で、なお聖書の言葉を口にされるのです。神を重んじておられる証拠です。主イエスは、神がなさることを受け入れようとされていたのです。

様々なことが起こる私たちの人生です。どのように自分を保ったらよいのでしょうか。私たちには、祈りの中で、聖書の言葉を用いて主イエスのように神に問うことが許されています。神がなさることを私たちは信じて待つことができます。どのような中にあっても、信じて、導きを祈り続けてよいお方がいるのです。神に贖われた私たちの幸いがここにあるのです。