[説教断片]

 説教:偽りのない心を
    
(2010年7月18日 徳田 宣義牧師)

 聖書:ヨハネによる福音書 2章23〜25

  先週、教会の用事でバスに乗りました。バスが走り出し、
 ふと昔のことを思い出していました。数年前のことです。路
 面電車のイスに腰掛けていました。知らない間に寝てしまい
 ました。目を覚ますと、隣の座席の年配の方が、私の方を
 ちらちら見ていました。ふと目を上げると、年配の方が立っ
 ていました。席を譲らないといけないと思いながら、すっかり
 眠っていましたから、悪いことをしてしまったという後ろめた
 さもあり、席を立つことができませんでした。電車が、丁度
 停車しましたので、座席から立ち上がり、その駅でおりまし
 た。降りる予定の場所ではありませんでした。目的の駅ま
 で歩きながら、気がついた瞬間に、どうしてすぐに席を譲れ
 なかったのかと思うと恥ずかしくなりました。

  先日、ある説教者が、こう書いている文章を読みました。
 「残念ながら、人間に反射的にいいことはできない」。なる
 ほどとうなりました。

  主イエスは、私たち人間の心のすべてを見透かして、そ
 れを信用されなかったと今日の聖書は伝えています。どの
 ような心か。それは主イエスのなさったしるしを見て、主イ
 エスの名を信じた、その多くの人の心を信用されなかった
 のだと書いてあるのです。

  信用というのは、大事なことです。夫婦の関係、友人との
 関係、先生と生徒の関係、上司と部下の関係、会社と会社
 の関係、国と国との関係、信用がないと、本当の血の通っ
 た関係というのは実現しません。それほど信用というのは、
 大切です。そして、私たちは人間関係で苦しむことが多い
 ですから、信用の問題を無視することはできないといって
 よいでしょう。

  宗教改革者のルターは、自分は、神に信用されるに値し
 ない存在であるといいました。つまり、ルターは、神が人間
 をどうご覧になっているかを深く知っていたということです。
 そのように神との関係が、人間の側で一方的に信用を失っ
 ているのです。ですから、神と人との関係が心通じ合うもの
 になっていないと聖書は示すのです。そして、私たち人間
 同士が結んでいる信用関係を、神がご覧になっても、そこ
 に真実を、お見つけになることはないでしょう。しかし、そう
 いう私たちが立ち直れるように、神から信用を失ってその
 まま滅びに至らないように、主イエスが、来てくださいまし
 た。神が遣わしてくださったからです。そして、ヨハネ第3
 章16節以下は、その神の御心を、こう表現するのです。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛され
 た。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得
 るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁
 くためではなく、御子によって世が救われるためである」。

  神は、信用できない私たちが造る世を愛してくださいまし
 た。愛しぬかれました。最も大切な神の独り子主イエスを、
 十字架につけてしまわれるほどに。そして、信用関係とい
 うのは、損得勘定をしないこと。見返りを求めないことだと
 教えてくださったのです。

  では、私たちは、どうすれば、神の御心に適う歩みがで
 きるのでしょうか。本当の主イエスの弟子になるには、どう
 すればよいのでしょうか。神に信用されるには、どうすれば
 よいのでしょうか。ヨハネによる福音書第8章31節にはこ
 うあるのです。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたた
 ちは本当にわたしの弟子である」。

  私たちが主イエスに信用されるようになるには、神の言
 葉にとどまることだというのです。しるしをみたときだけ、
 感激するような信仰ではなくて、よいことが自分にあったと
 きだけ、信じる信仰ではなくて、どんな時でも、ずっと神の
 言葉に留まる歩みを求めていらっしゃるのです。

  私たち人間は、咄嗟にいいことはできません。どうしても
 一呼吸が必要です。神の言葉こそ、人に一呼吸つかせま
 す。神の言葉にとどまって、一呼吸つかない心を主イエス
 は、信用されないというのです。礼拝、祈り、聖書を読むこ
 と。それが、人生の一呼吸です。神と呼吸をあわせる。
 それが、神に造られた私たちの本来の生き方となるので
 す。

                                 完


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