[説教断片]

 説教:本当の自由を
    
(2010年2月21日 徳田 宣義牧師)

 聖書:ペテロの手紙一 2章11〜17

  主イエスを信じる私たちの存在というのは、神から見たら
 この世においては仮住まいの身だというのです。私たちが
 神に従えず、神の御心から外れ、神から離れるという罪を、
 主イエスが、私たちの身代わりとなって背負ってくださった
 からです。そのことによって、私たちの罪は、主イエスを信
 じることで赦され、神との関係を壊す罪から贖われて、神
 の御許へ帰ることができるからです。そして、今度は、そう
 やって主イエスによって救われた体をもって、私たちは神
 の御許へ行く時まで地上を生きる。それが私たちの毎日の
 生活となりました。ですから「魂に戦いを挑む肉の欲を避け
 なさい」と聖書は語ります。私たちは、確かに神をこの目で
 見ることはできません。しかし、この地上に生きる時から
 すでに神のものとされていますから、「神の前で生きるよう
 な生き方が、自然と滲み出るでしょ」と聖書は語るのです。
 そして、もちろん、私たちは、この地上で仮住まいしている
 からといって、旅の恥はかき捨てという生き方はできません。
 地上の生活も神から与えられた場所。そう思うからこそ、私
 たちは、毎日を真剣に生きるのです。いや、神のためにそう
 思わないでいられなくなるのです。

  12節には、「異教徒の間で立派に生活しなさい」 とありま
 す。立派な生活をしなければ、天へ入ることができないとい
 うのではありません。私たちが神と共に生きる命へ救われ
 る、そのためのことは、主イエスが、全部してくださるからで
 す。私たちはこの方を信じて、一緒に生きていけばよいので
 す。主イエスについていけばよいのです。しかし、この主イ
 エスと一緒に生きるなら、その生活は自然と変わらざるを得
 なくなるというのです。

  先日、家族4人で電車に乗りました。3歳の息子が電車の
 中で、座席に座って手をあわせ「アーメンしよう」 というので
 す。お祈りしてくれというのです。「電車の中だからしないよ。
 お家に帰ってしよう。」 といいましたけれども、「アーメンした
 い」 と何度も言うので、少し困りながら電車の中で声を出し
 て一緒に祈りました。お祈りが終ると、息子は待ってました
 とばかりに「アーメン」 といいました。妻は、離れたところで
 この様子を見ていましたので、「お祈りをしているとき、まわ
 りの人たちがびっくりしていたよ」 と電車を降りたところで教
 えてくれました。主イエスが幼子のようになれというのは、
 周りを気にする必要もないほどに、信じるということでもある
 のでしょう。それだけに、仕方なく祈った私は、なんと不信仰
 なのかと帰り道を歩きながら思いました。そして、主イエスを
 信じるということが、この世界において、あの電車の中にお
 いて、自然なことになるならば、どんな素晴らしいことかと思
 いました。それはいつのことになるのでしょうか。

  12節には「訪れの日に神をあがめるようになります」とあり
 ます。「訪れの日」とは、一つには主イエスが、再び天から来
 てくださる日です。この日には、どんな人でも、神がわかるよ
 うになるのです。そして、もう一つは、私たちの心に主イエス
 が訪ねてきてくださった日と考えることができます。皆さんに
 主イエスが訪ねてくださったから、皆さんは洗礼をお受けに
 なりました。同じように、まだ信じていない人にも主イエスが
 訪れる日が来るというのです。その訪れの日に、私たちの
 旅人の生き様、神を忘れない生活が説得力を持つというの
 です。ですから、私たちの日頃の生活には、重大な意味が
 与えられているのです。「異教徒の間で立派に生活しなさい」
 とあるのは、救っていただくために、そうするのではありま
 せん。救った者を、神が伝道のために必要としてくださって
 いるということです。私たちの生活には、人々に神を指し示
 す祭司の務めが与えられているのです。

  13節に 「主のために、すべて人間の立てた制度に従いな
 さい」 とあります。人の立てたあらゆる制度の矛盾を私たち
 は知っています。しかし、主イエスのために従ってご覧と聖
 書は語ります。信仰者とは、神がどう私たちをご覧になって
 いるかを知っている人のことです。ですから、そういう神の
 見つめる眼差しを持って、少しでも、自分の職場や学校や
 病院や家庭が、神の喜んでくださるところとなるように従う
 のです。

  旅人だからこそ、風景を客観的に見ることができます。
 私たちは、天に向かっていく旅人として日常を生きます。だ
 からこそ、政治も、仕事も、家庭も、人の目と神の目を知っ
 ているために、よくみえるようになるのではないでしょか。そ
 して、私たちが地上の歩みの中で、神を見失わないように、
 教会が建てられています。信仰の仲間が与えられているの
 です。これからも、教会の仲間たちと互いに祈りあいながら、
 そして新しい仲間が加わることを祈りながら、一緒に天への
 旅を続けてまいりましょう。
                                 完


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