[説教断片]

 説教:命をかけないと伝わらないこと
    
(2009年11月8日 徳田 宣義牧師)

 聖書:ルカによる福音書23章44〜49

  2日前でしたけれども、私は本を読んでいて、ある有名な
 シスターが日本に来て語ったという、こういう言葉に出会い
 ました。「愛するということは、いくら与えたかではなく、与え
 たことにどれだけの愛を注いだか ということが大切なので
 す。どれだけたくさんのことをしてあげたかということではな
 く、どれだけ心を込めたかが大切なのです」。

  そして、この文章を読んで、私はこういうことがあったと思
 い出しました。少し前のことです。 外国から日本にいらした
 カトリックのシスターの方とお会いする機会がありました。
 もう長く故郷を離れて日本にいる方です。ある方が、このシ
 スターにこういう質問をしたのです。「家族と離れて、遠い日
 本にまで来て、寂しくないですか」。 でも、そのシスターはと
 ても明るく、「寂しいことなんかありません。 イエス様に仕え
 ることが一番嬉しいことですから。」と答えていました。神の
 深い愛を注がれる。神の心のこもった行為を受ける。 それ
 は、こういう生き方へ人を導くのだと、私は思わずにおれま
 せんでした。

  今日の聖書は、イエス様が十字架の上で死なれたことを
 伝える聖書の箇書です。イエス様が十字架にかかった。ど
 うしてでしょうか。私たちを愛しているからです。私たちが神
 さまから離れて生きている。そのような生き方をやめさせる
 には、これしかなかったからです。そして、神さまと私たちが
 一緒に生きられなくしている私たちの罪が、償われるため
 には、イエス様が十字架にかかるしかなかったからなので
 す。

  神さまが私たち人間を造られて、このように生きて欲しい
 と願っておられることがありました。一つは、神さまを愛して
 生きて欲しいということ。二つ目は、私たちは神さまから命
 を与えられていますから、皆さんが、自分を大事にし、自分
 を愛して生きて欲しいということ。そして、自分を愛するよう
 に、自分の生活で出会う人々を愛して欲しいということ。 こ
 のように生きて欲しいと神さまは願っているのです。 でも、
 そういう神さまの心から外れて生きることを、聖書は罪とい
 うのです。

  この罪があるから、私たちは神さまと一緒に生きられない
 でいます。でも、イエス様は、この罪を私たちの代わりに背
 負って、私たちが罪のないように十字架にかかってください
 ました。その時、エルサレムの神殿の垂れ幕が真ん中から
 裂けたと聖書は書いているのです。 垂れ幕が真ん中から
 裂けた。このことは、イエス様によって、私たちが神さまとお
 つきあいをして生きていけるようになったということなのです。
 イエス様は、このように神さまの愛を伝えるために死んでく
 ださいました。日曜学校の皆さんは優しい人たちばかりです
 から、十字架にかけられたイエス様を可哀想だと思うことで
 しょう。しかし、私たちこそが、可哀想だとイエス様は、ご覧
 になっているのです。

  神さまと一緒に生きていけないことが可哀想。 自分を大
 事にできないことが可哀想。自分を大事にするように、手の
 届く人たちを愛せないことが可哀想。だからこそ、イエス様
 は、神さまの愛で私たちを包み込もうとしてくださいました。
 もう一度、やりなおす道を与えてくださったのです。

  皆さんの周りにいるこの教会の人たちは、辛いこと、悲し
 いことが山ほどあっても、神さまは私を見捨てないと信じて
 いる人たちです。皆、イエス様に慰められ、神さまの愛を注
 がれた自分の物語を持っている人たちです。素晴らしいで
 しょう。そして、最後に私が皆さんにお伝えしたいのは、日
 曜学校の先生たち、皆さんの周りにいる教会の人たち、そ
 してもちろん私も、皆さんのことをお祈りしているということ
 です。いつか私たちと同じように、イエス様を信じて、イエス
 様と一緒に生きる生き方へ導かれて欲しいと心から願って
 いるのです。それが神さまの願っておられることだからです。
 皆さんの上に、神さまのお守りがいつもありますように。

                                 完


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