岩の上に建てられた

顕現節第8主日、2011年2月27日


マタイ7:15-29
7:15 「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。 7:16 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。 7:17 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 7:18 良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。 7:19 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 7:20 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」
   7:21 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。 7:22 かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。 7:23 そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」
   7:24 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。 7:25 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。 7:26 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。 7:27 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」 7:28 イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。 7:29 彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。

イエス様は例え話を話しました。2人の人が家を建てました。一人は賢い人で、もう一人は愚かな人でした。賢い人は自分の家を岩の上に建てましたが、愚かな人は砂の上に家を建てました。嵐の時、賢い人の家がしっかりした土台の上に建てられたので、倒れませんでしたが、砂の上に建てられた愚かな人の家は壊れて、その倒れ方がひどかったのです。イエス様の例え話の意味とは、私達が自分の人生をイエス様の教え、山上の説教の言葉の上に建てなければなりません。

まず賢い事と愚かな事を定義しましょう。例えば、賢い人は海の浜辺に行きます。そのビーチに看板があります。「サメに注意」と書いてあります。そして沖の方に見ると、そのサメの背びれを沢山見ます。それで賢い人は水に入らないで、ビーチでフリズビーやビーチバレーボールをして遊びます。しかし、愚かな人はその看板を見て、読んで、理解して、そのサメの背びれを見て、それがサメと分かっても、泳ぎに海に入ります。そして彼はサメに食べられてしまいます。所で、小さい子供や外国人がビーチに行きます。その看板を見ても読めません。沖のサメの背びれを見ますが、それがイルカだろうと思って、可愛いイルカと思って、イルカと遊びたいと思って、海に飛び込んで、すぐにサメの餌食(えじき)になります。この人は愚かな人ではありませんが、ただ大きな運の悪い間違いをしました。そして、もう一人います。その人は、その看板を取ってしまって、その代わりに「ビーチがオープン」と言う看板を立てます。イエス様は、この最後の人を偽預言者、羊の皮を身にまとう狼と呼びます、ライフガードの服を着る変な人です。言い換えますと、賢い人は何が正しいか分かって、それを実行します。愚かな人も、何が正しいか分かりますが、それなのに正しい行いをしません。そして、素直な人がいます。愚かな人の言葉を聞いて、それを信じて、それをしますが、その結果がひどいです。その家が嵐の時に倒れます。

イエス様は最初に、神様を良く知るユダヤ人に話しました。しかし悪い先生がいました。イエス様はその人々を偽預言者と呼ばれました。その人は、正しく神様の愛と神様の救いの御計画について話しませんでした。その結果とは、人々が自分達の人生をウソの上に、聖書の間違った理解の上に建てました。その教えとはパリサイ派やサドカイ派の人々の教えです。それで、砂の上に建てられた家と同じように、人々の人生は嵐がきたときにたおれてしまいます。

イエス様は例え話を話しました。その土台になる岩は、勿論イエス様ご自身や神様のみ言葉です。その家は私達の人生です。家を建てる事は人生を送る事ですし、その生き方です。この家はいつも建設中です。何故ならば、人生がいつも変わるからです。それで、私達の人生が一枚の写真よりも、動いているビデオのようです。イエス様は家を建てる方法とは、山上の説教によって生きる事であると言われました。イエス様の山上の説教の教えは、私達の人生のコンクリトと鉄と板とペンキとくぎです。設計図は神の御言葉です。イエス様は私達の家をこのように計画します。即ち心が清い事(5:27), 約束を守る事(5:34), 敵を愛する事(5:44), 善行(ぜんこう)をする事 (6:1), 主の祈りを祈る事(6:9), 人を裁かない事 (7:1), などです。このようにして、私達はイエス様の上に自分の人生を建てます。それで、私達の人生がその土台のように見ます。私達の人生がイエス様のように見ます。それで、私達の人生が嵐と台風と地震と津波に耐える(た)事が出来ます。悪い天気をも、人生の問題とストレスにも耐える事が出来ます。

しかしある時、私達がサメと共に泳いでいるみたいです。誘惑されて、愚かな事であると分かりながら、それをします。私達がクリスチャンであっても、罪は何であるか分かっても、時々、その愚かな罪を選んでします。勿論、事故のように、間違って他の人をキズつける事があります。しかし、注意の警報の看板を無視する事があります:「サメに注意」、「サタンに注意」などです。その時、別の看板を見なければなりません。十字架上に書かれた物です「これはユダヤ人の王、ナザレのイエス」と。イエス様が侮辱されました。私達のような罪人を赦す為に十字架上で死ぬ事が世の思いでは、馬鹿な愚かなものように見ます。死んで、地獄に下って行く事は、馬鹿みたいですが、キリストの知恵とは、イエス様は神の御言葉や神の約束によって生きた事です。この知恵は復活と永遠の命です。この知恵は愛です。この愛がいつも私達と共にあります、雨が降っても、嵐があっても、私達と共にあります。心配と悩みがある時、問題と苦しみがある時、自分の罪に悩まされている時、自分の愚かな行動が自分自身を悩ます時、自分の家が倒れる時:その時に救い主イエス様が私達を捕らえてくださいます。彼の愛と恵みの腕(うで)の中に落ちるからです。その腕が十字架上で広く伸ばされていました。その恵みの手の中に、すべての罪人を集めます。

イエス・キリスト以外の土台の上に建てましたら、どうなるでしょうか。例えば、宗教的な良い気持ちと楽しい時の上に建てましたら、問題が来る時や気持ちが淋しい時、神様が自分をもう愛してくれないと疑って、教会から去るかも知れません。今から10年後、30年後、人生の厳しい時、私達を支えるものは何でしょうか。青年会のピザパーティでしょうか、それとも聖さん式でしょうか。私達に元気を与えるものは、教会での昔の楽しい遊びでしょうか、それとも神の御言葉でしょうか。十戒を守った私達の業でしょうか、それともイエス・キリストの業でしょうか。自分の業の上に建てるのは、自分の上に建てる事です。その場合には、罪を犯しましたら、私達の土台が崩れてしまって、何も残りません。いや、失敗と落胆(らくたん)と失望が残ります。その時、自分が弱いと分かって、がっかりして自分自身を憎みます。しかし、イエス・キリストの上に建てましたら、罪を犯しても、イエス・キリストには、素晴らしい赦し、あわれみ、慰め、力と救いがあります。

アーメン。

マイケル・ニアフッド牧師
沖縄ルーテル教会


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