どうしてイエス様が十字架上で死ななければならないでしょうか

2013年3月17日、受難節第5主日
ルカ20:9−20. ぶどう園の農夫達

どうしてイエス様が十字架上で死ななければならないでしょうか。教会学校の子供が答える事が出来ます。それは、「私達の罪を赦す為に死んで下さいました」と。でも、どうして、死ななければならないでしょうか。そして、どうして十字架上で死ななければならないでしょうか。

旧約聖書によりますと、死がなければ、赦しが決してないみたいです。ただし、人間が死ぬ事の変わりに、動物が死ぬ事があります。その動物は羊や山羊や牛や鳩などです。流される血の犠牲がなければ、小さな罪でさえも、赦されているケースを聖書の中で私は見つける事が出来ません。これは、罪がどんなに重大で、大変なことかを現すでしょう。罪が悪いのは、何かの規定を破ったからではなくて、神様との絆(きずな)を破ったからです。自分の家庭の中でもそうでしょう。例えば、食事の前でお菓子を食べる事がわるいです。食欲をなくする事がありますが、お母さんの規定を破る事よりも、お母さんとの信頼感を破ります。状況(じょうきょう)が長く、もっと悪くなると、親はあなたを家から追い出すかもしれません。同じような理由で、神様は罪が悪いと思います。罪は、神様との信頼関係をなくすることを表します。神様を信頼しないと、神様の祝福をうしないます、そして、最後は、それが死ぬ理由です。ですから、罪の最高の罰は、死です。死は神様から離れている状態です。完全に神様から離れる事は地獄です。旧約聖書の血による犠牲は、その事をはっきりと教えます。動物が死ぬと、私達も死ぬべきであると私たちに覚えさせます。犠牲はマジックではなくて、信仰の業です。信仰が必要です。神様は私達の信仰を見るので、私達の罪を赦します。私達を殺す罪を取り除きます。

新約聖書の福音によりますと、イエス様が一度だけすべての人間の為に犠牲として死んで下さったので、ほかの犠牲がもう必要ではありません。動物の犠牲は全然イエス様の犠牲と比べることが出来ません。イエス様が神様であるので、イエス様の犠牲には、イエス様を自分の救い主として信じるすべての時代のすべての人々の罪を赦す力があります。

しかし、どうしてイエス様が、十字架上で死ななければならないでしょうか。聖書によりますと、ほとんどすべての犠牲を正しく行う場所は、エルサレムの神殿の祭壇です。ですから、世の罪を取り除く神様の小羊として、イエス様は、その神殿の祭壇の上で死んで、彼の血が、契約の箱があった至聖所にかけられるはずです。しかし、決してそうはならないでしょう。イエス様の時代の祭司達は、人間の犠牲を決して許さないでしょう。旧約聖書には、それは異教の宗教が行なった非常にひどい罪でした。もし、祭司達がイエス様が本当に、神の子、メシア、犠牲としてささげられるべき神の小羊であると信じても、そうしないでしょう。イエス様を信じて、イエス様を愛しましたら、イエス様をそのひどい犠牲としてささげられないでしょう。

でも、どうして、イエス様の裁判とその十字架上での死は必要でしょうか。今日、2つの理由を言います。

一つ目は、イエス様の死は、全世界の人々の罪を表し、全世界の人々のための罪の赦しを表します。ユダヤ人はイエス様を裁判にかけて、ローマ人は彼を死刑にしました。ユダヤ人も異邦人もの罪を表します。言い換えますと、全世界の罪(あなたと私の罪を含めて)がイエス様の上にかけられました。

二つ目の理由は、十字架上の死は、罪の直接の結果だったのです。ユダヤ人の指導者たちは、律法学者と祭司長達がイエス様を殺すのは、彼が救い主であると思ったからではなくて、自分の心の中の恐れとしっとと怒りと罪のためでした。イエス様を逮捕した時、罪を犯して、偽証を言う時、罪を犯して、彼を「死刑にせよ」と叫んだ時も罪を犯しました。ローマ人も、彼をむち打った時や彼を侮辱した時、罪を犯しました、頭の上に茨の冠をかぶせた時、罪を犯して、釘でイエス様を十字架に付けた時も、罪を犯しました。心の中だけの罪ではなくて、物質的な罪がイエス様を十字架上で殺しました。

十字架が必要であったのは、罪がどんなに大変なものか、罪のひどい結果を教えるからです。エルサレムの神殿の祭壇の上の犠牲でしたら、 それはユダヤ人だけの為の儀式のように見えるでしょう。 しかし、十字架上の死は、イエス様の死はユダヤ人だけの為にではなくて、世のすべての人々の為であると現します。

今日、福音書の日課の例え話しの言葉の中で、イエス様が私達のところにも来られます。しかし、私達はよくそのぶどう園の農夫達のようです。私達は神様に彼の愛の実を返しません。神様は私達を愛して、豊かな恵みと愛の収穫を下さいます。しかし、神様を愛さない時、隣人をも愛さない時、私達は神様を拒否するぶどう園の農夫のようです。彼らはぶどう園から追い出されました。私達も、イエス様が神様の子であると信じなければ、神様の国から追い出されます。

今日、イエス様は私達の所に来られて福音を述べ伝えます。私達一人一人に来られます。私達を愛するからです。彼を拒否しても、再び私達に来られます。私達は彼を自分の人生から追い出しても、再び彼を十字架につけても、イエス様は再び私達に来られます。ユダヤ人やローマ人がイエス様を十字架に付けました。しかし、私達の罪もイエス様を釘で十字架に付けました。それなのに、イエス様が3日目に甦って私達の所に来られます。今日の福音書の日課が言うとおりです。「家を建てる者の捨てた石、これが隅(すみ)の親石となった。」

どうしてイエス様が十字架上で死ななければならないでしょうか。教会学校の子供が答える事が出来ます。それは、「私達の罪を赦す為に死んで下さいました」と。でも、どうして、そのように、十字架上でこそ、死ななければならないでしょうか。それは、私達は罪の恐ろしい結果が見えるためです、即ち、死です。私達の死も、イエス様の死もです。しかし、私達がイエス様の愛を知りますので、十字架は赦しと希望と命のしるしになります。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


説教のリスト