私はどなたですか

20178年8月274日

マタイ16:13−20

16:13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。16:14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」16:15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」16:16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
    16:17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。16:18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。16:19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」16:20 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。

私はどなたですか

イエス様は弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました。イエス様はどなたですか。イエス様はどのような者ですか。多くの人々は色々の違った答えをしました。信仰から来る答えから、ぼうとく的な答えまでもあります。イエス様の時代にも多くの人々には間違った考えがありました。イエス様はどなたでしょうか。例えば、イエス様には奇跡が出来る力があったので、もしかしたら、甦った預言者でしょうか。例えば、エリヤやエレミヤや洗礼者ヨハネでしょうか。「人の子」であるイエス様の本当の事を誰も知りませんでした。すべては推測(すいそく)でした。イエス様が問題を起こす者や政治的な反抗する者だと思った人々は一番大きな間違いをして、イエス様を十字架上で殺してしまいました。

実は、推測する事だけで、誰もイエス様が本当にどなたであるかを、決して知る事ができません。人間的な理性では、イエス様の秘密的なアイデンテティを知る人がいません。イエス様はペテロにこのように説明しました。「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」口語訳聖書はこのように言います:「あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいます私の父である。」イエス様は預言者のような者ですが、預言者だけでしたら、それは足りません。陰府の力や罪と死の力が攻撃するとき、それと対抗する力がありません。 イエス様は預言者以上のものです。しかしそれを理解する為に、神様の啓示が必要です。これは聖霊による父なる神様の働きです。聖霊は信仰を与えます。その信仰は、十字架上で殺されて3日目に甦られた主イエス・キリストが生ける神の子であると信じます。マルティン・ルターの小教理問答書の中で、使徒信条の第3条で、このように説明しました。「私は、自分の理性や力で、主イエス・キリストを信じることも、主に近い者になることもできないことを信じます。」

もし人が,イエス様がどなたであるか知らなければ、イエス様を救い主として信仰告白する事が出来ません。全然分らないで、ヒントがなければ、その鍵がありません。天国の鍵がないので、信仰に入る事が出来ません。イエス様は彼らに聞きます。「あなたは誰ですか。私はあなたを知りません。」と。

しかし、私達は血肉の人間です。どのようにして神様を知る事が出来るでしょうか。どのようにイエス様がどなたであるか知る事が出来るでしょうか。イエス様は人の子であり、神の子です。人間の為の不滅な愛を表して十字架上でご自分の命を与えました。人間は永遠と神様の方法を知る事が出来ません。しかし、私たちは十字架の痛みと悲しみと愛を理解する事が出来ます。イエス様についての話が私達に述べ伝え、教えられています。そして、私達の心と理解を開くため、イエス様がどなたであるかを分る為に、信仰を与えます。マルティン・ルターの小教理問答書の中で、使徒信条の第3条で、このように説明しました。「しかし、聖霊が福音によって私を招き、その賜物をもって教えて下さり、真の信仰のうちに聖化して守って下さいます。」これは霊的な啓示です。イエス様を知ると、自分自身も知る事になります。神様が私達を祝福します。私達に自分に対する新しい認識、アイデンティティがあります。以前に「シモン・バルヨナ」として知られていた人が、今度「ペトロ」として知られています。洗礼を受ける時、私達も新しい名前を受けます。父と子と聖霊と言う名前です。「ペトロ」と言う名前の意味とは、「石」や「岩」です。ペトロの信仰告白は、教会の土台の石になりました。この土台の石がイエス・キリストを信じる事であるので、地獄が教会を破壊する事が出来ません。罪が赦されているので、罪や死も教会を破壊する事が出来ません。あなたや私の罪が赦されているので、罪や死が私達の信仰の土台である岩を破壊する事が出来ません。

イエス様はどなたですか。神の国の鍵を教会に与えるお方です。この方が宣教の働きや奉仕の働きをする為に教会にその鍵が与えられました。この奉仕とミッションの目的とやり方が同じです。即ち、罪をつなぐ事と罪を解く事です。イエス・キリストの福音を述べ伝える時、この宣教と奉仕が行われています。何故ならば、十字架と復活について話す時、罪の赦しについて話しているからです。そして、人々が自分の救い主としてイエス様を信じる時、彼らの罪が赦されています。神の国の鍵が天国と地獄の門を開(あ)けたり閉(し)めたりします。

18歳になって、若い人の一番楽しい事の一つとは、お父さんが家族の車の鍵を渡す時です。自由の喜びです。お父さんに信頼されているというプライドです。自分の手の中には力・パワーがある気分です。車のカギがあると、前方に進んで世界を冒険する事が出来ます。ですから、イエス様は私達に天国の鍵を与えます。同じ喜び、プライド、自由と興奮です。この力と権威があるので、私達は出かけていって、主イエス・キリストの宣教と奉仕の働きが出来ます。ペテロが告白してように、イエス様は「メシア、生ける神の子である」からです。

アーメン。


説教のリスト



鍵の聖務 と ざんげ
マルチン・ルターの小信仰問答書より


問 ざんげとは何ですか?
答 ざんげは二つの部分が成り立っています。一つは罪の告白であり、もう一つはゆるしの言葉、あるいはゆるしを、神ご自身から受けるように、ざんげを聞く牧師から受けるのです。これによって天にいます神のみ前に罪がゆるされていることを疑わないで堅く信じるのです。

問 それならどんな罪をざんげしなければなりませんか?
答 私たちは神のみ前において、すべての罪を負わなければなりません。「主の祈り」で私たちがするように、自分で気づかない罪をも負わなければなりません。ただしざんげを聞く牧師の前では、私たちが知っており、心の中で感じる罪のみを告白しなければなりません。

問 それはどんなものですか?
答 十戒に照らして、あなたの状態を反省してみてごらんなさい。あなたは父として、母として、息子として、娘として、主人として、主婦として、僕として、不従順、不真実、怠惰、短気、不貞、激情的ではありませんでしたか。また言葉や行いによって、誰かに苦しみを与えませんでしたか。盗みをしたり、怠ったり、なげやりになったりして、害を与えませんでしたか。

問 鍵の聖務とは何ですか?
答 それはキリストが、地上にあるご自分の教会に与えられた固有の力です。すなわち悔い改めた罪人の罪をゆるし、悔い改めない者は、悔い改めない限り、その罪を留めておく力です。

問 それはどこに記されていますか?
答 聖なる福音書記者ヨハネは、ヨハネによる福音書20章(22-23節)で、次のように記しています。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」

問 「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」というみ言葉によって、あなたは何を信じますか?
答 招聘されたキリストの牧師が、神のご命令に従って、私たちを取り扱うとき、特に罪を悔い、さらに、喜んでそれを改める者を赦し、あるいは明白な罪人で、悔い改めない者を、キリスト教会の会員から取り除くときには、あたかも、キリスト自らが、私たちを取り扱われると同じように、天においても有効確実であることを私は信じます。