純粋な福音

2017年7月9日


福音書 マタイ 11:28~30

28 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。《

ローマ7:24*25a

私はなんと惨mijiめな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか。私達の主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。

今日の福音書の日課は、純粋な福音です。喜ばしい良い知らせです。昔から多くのキリスト信者達に、希望と慰めと平和と力と喜びと安心を与えました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。《すべての人々には重荷があります。皆には荷物があります。仕事や責任があります。心配を始め、過労、病気、痛み、悲しみ、後悔、恐れ、罪や悪い良心、無力、圧迫といじめ、争いがあります。イエス様の言葉は、やすみと平和を得るためへの招きです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。《

しかし、この世のやかましくて空munaしい約束があるので、イエス様の言葉が聞こえません。永遠の平和の代わりに、一時的な解放kaihou や展開tenkaiしかありません。そのものが別に罪深い訳ではありません。この世の綺麗なものと良いものは神様からの恵みです。友達や薬によって助けられます。しかし、ある時、心配とか痛みがひどくて、そのものが何も役に立たないみたいです。失望は地獄のようです。イエス様を諦akiraめましたら、それは地獄です。

イエス様の言葉が純粋な福音であるのは、イエス様が私達と共にいるからです。イエス様は私達の問題の責任を取るからです。私達の痛みを御自分の上に取るからです。イエス様は私達の問題が分かります。これが素晴らしい良い知らせであるのは、イエス様は御自分の上にこの世の罪を取って、世の痛みを取って、世の重荷を取って十字架上で死にました。御自分の上にその重荷がありましたが、イースターの朝に甦った時、その罪を全部後ろに捨てました。その罪が死にました。イースターに復活した時、癒しと命がありました。

詩篇23篇は同じ事をいいます:「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂をいきかえらせ《。

休ませる方法のもう一つとは、私達に新しい物を下さる事です。

イエス様は言われました、「わたしは柔和(にゅうわ)で謙遜(けんそん)な者だから、わたしの軛(くびき)を負(お)い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負(お)いやすく、わたしの荷は軽いからである。《イエス様のくびきを見つける時、魂の安らぎを見つけます。くびきが分かりますか。首のカラーの一種です。鋤やワゴンを馬や牛に引っ張る時、その動物をそのワゴンやカートにつながなければなりません。つなぐ為にくびきを使います。牛の首と肩にかけますので、その牛の力が全部をそのワゴンを引っ張る力になります。くびきのサイズが大切です。大きいと落ちるでしょう。小さいと牛の首を絞めるでしょう。スムーズでなければ、牛の皮膚を切るでしょう。丁度良いフィットでしたら、簡単に負(お)い易(やす)くて、簡単にそのワゴンを引っ張る事が出来ます。イエス様が「わたしの軛は負いやすく《と言われる時、その意味です。イエス様の助けによって、私達の人生の問題がより易く扱います。そして、イエス様の助けによって、私達の重荷がより軽くなります。

イエス様の「くびきは追いやすい《です。即ち、私達の為に丁度良いサイズです、らくに身につける事が出来ます。すべてのバックパックがすべての登山者(tozansha)の体に合わないものです。ですから、買う前に、身に付けてみて、ストラップを調整して、らくに山のてっぺんまで持つ事が出来るパックを探します。イエス様は私達のサイズが分かります。この人生で、私達が背負う事が出来る仕事を下さいます。そして、聖霊の助けによって、私達の重荷は、さらに負いやすく軽くなります。

本当です。私の経験ですが、祈りますと、私の問題が軽くなります。祈りによって私の問題をイエス様の所に持って行きますと、イエス様は私を助けて下さいます。又、歌を歌う事も役に立つと私には分かります。歌は祈りですし、神様の愛を思い起こすものです。ですから、私達が好きな賛美歌の一節や二節を覚えておくべきです。祈りと歌は、私達をイエス様につなぐくびきです。礼拝も素晴らしいです。罪の告白と赦しによって、その古い罪の重荷を下ろして捨てます。聖餐式によって、毎日の信仰の為の力とイエス様との人生の力をももらいます。

教えなければならないのは、イエス様が下さる新しい重荷とは、十字架です。言われました。「自分の十字架を担ninaって私に従い《なさい (マタイ10:38)。どうしてその十字架が軽いかと言いますと、それは、イエス様が私達の為にその十字架を背負ってゴルゴダを登って、私達の罪の重荷を取り除く為に十字架に付けられたからです。イエス様は神様であるので、彼の死によって、その罪の重荷が赦されて、その重荷がおろされています。

聖パウロは、この事に大きな慰めを見つけました。聖パウロは、宣教のミッソンの迫害の重荷、最前線の苦しい状態について文句を言いませんでした。彼が感じた大きな重荷とは、自分の良心にあった罪の重荷です。自分で一生懸命に頑張っても、罪を犯さない事が出来ませんでした。自分の心や人生の中は戦争のようでした。平和を見つけられる所とは、イエス・キリストの愛と赦しの中だけでした。このように書きました、「私はなんと惨mijiめな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか。私達の主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。《〔ローマ7:24*25a〕。これは私達の為にも純粋な福音です!

夏の暑さでしても、人生の悩みでしても、ここには、私達の皆の為の休みがあります。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。《

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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