海の上を歩く信仰の人生

2014年8月10日



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福音書  マタイ14:22~33(新28)
14:22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。14:23 群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。14:24 ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。14:25 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。14:26 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。14:27 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
14:28 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」14:29 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。14:30 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。14:31 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。14:32 そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。14:33 舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。
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水の上を歩く事はいかがでしょうか?楽しいだろうと思います。橋がなくても川を渡る事が出来ます。ビーチから歩いて、足の下にある綺麗な魚とサンゴを見る事が出来ます。釣り棒を持って、魚がいる所まで歩く事が出来ます。カメラを持って、波の中でサーフィングをする人の、ダイナミックな写真を取る事が出来ます。他の人があなたを馬鹿にするでしょう。「どうしたの?君が泳ぐ事が出来ないの?」足の裏に小さな舟をつけなければ、人間が水の上を歩く事が出来ません。やってみると、沈んでしまいます。水の上を歩く事が出来るように、神様は人間を造りませんでした。それで、イスラエルの民がエジプトから出る時、モーセが紅海の水を分けて、民が渇いた土の上を歩きました。同じように、イスラエルの民が約束の地に入る時、ヨシュアの時、ヨルダン川がその流れを止めて、人々は乾いた土の上を渡りました。又、エリアが火の馬車で天国に行く前に、自分の上着をまいて、ヨルダン川をたたいて、彼とエリシャが向こう側へ乾いた土の上を歩きました。私達はペテロのように、水の上を歩くような冒険をしたいと思うかもしれませんが、ペテロのように、私達も海に沈むでしょう。

実際に、私達は物質的に水の上を歩く事が出来ないので、霊的に出来るでしょうか。それは、その水が人生のすべての問題です。キリスト信者達はこれが分かります。私達がイエス様に目を向けますと、人生の問題の中でしても、心には平和があります。イエス様は私達を導いて、私達を守るからです。多くのキリスト信者はこの事を証しします。人生の只中で困った時、信仰が有ったので、浮uくことが出来ました。その問題とは、病気とガン、失業と経済問題、家族の争い、麻薬と酒と暴力、精神病、友達や連れ合いとの問題、仕事の問題などです。海の嵐のように、このようなものが私達を下に引いて、私達を溺れるようにします。そして、人生の台風が来る時、イエス様を見るよりも、その嵐を見たら、ペテロのように私達も沈みかけます。

もし私達はペテロのように、「主よ、助けてください」と祈って、叫びましたら、イエス様はすぐに御自分の手を伸ばして、私達を捕まえ下さいます。しかし、私達には人生の嵐があるので、イエス様を見る事が出来ません。罪の為に、私達はイエス様を見る事が出来ません。サタンは私達に鉛で出来たブーツを与えました。私達はそれが今はやっているファッションだと思って、それでしっかり歩けると思いました。 *[礼拝後、一人の会員が牧師に言いました:新しい洋服や靴を初めて身につけると、慣れるまでに楽ではないように、初めてある罪を犯す時、恥がありますが、数回同じ罪を犯すと慣れますので平気です。] 土の上を歩く時は大丈夫かもしれませんが、人生は罪の海です、性欲の湖です、仕返しと後悔の川で、問題の池です。繰り返す失敗の噴水です、恥の沼numa、争いの泥沼doroumaです、失敗の沼地numachiです。サタンの鉛のブーツとは、疑い、失望と不信仰です。サタンは手を伸ばして、嘘の約束と嘘の希望で、私達を死に引っ張る、いや、地獄へと引っ張ります。

弟子達の舟が、海の嵐の為に沈みそうでした。その時、イエス様は彼らのほうにあるいて来ました。しかし、その日のずっと前に、イエス様はこの地に来られました。ベツレヘムに産まれました。この世に産まれて来たのは、私達がここにいるからです。救いが必要な所は私達がいる所だからです。彼の救いがなければ、私達は地獄にいます。そして私達を救う為に、イエス様はあそこに行かなければなりませんでした。使徒信条の言葉を思い出して下さい。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)に下り」ました。私達が苦しむので、イエス様が苦しみを受けました;私達が死ぬので、イエス様が死にました。又、地獄に下ったのは、そこからの救いが私たちに必要だったからです。ペテロのように、私達は祈って叫びます、「主よ、助けてください」と。そして、主は私達を救って下さいます。救いとは復活と新しい命です。救いとは洗礼です。神様の御言葉と約束が有るので、洗礼の3滴の水の中にも、神様の完全な力があります。又、私は体を全体に水に浸hitaす浸礼sinreiも良いと思います。それは、罪やこの世のものに溺oboれるしるしです。死のしるしです。私達を殺すものを完全に洗い落とすしるしです。しかし、ただのしるしだけではありません。神様の御言葉と約束が有りますので、洗礼は復活であり、救いです。

ですから、キリスト信者達は、人生の問題の水の上を歩く事が出来ます。それが出来るのは、私達は自分の力によって歩いていないからです。いっぽ いっぽ、私達はイエス様の手をしっかり握るからです。それで、クリスチャンの人生には冒険があります。これは奇跡によって活きる事です。人生は一つの長い奇跡です。毎日、私達は祈ります。「主よ、助けてください。」「主よ、救いの為に、感謝します。」

イエス様はペテロを舟に戻しました。舟はほかの弟子達がいる所でした。そして、イエス様もその舟に乗りますと、風が静まったのです。皆が安全でした。実際に、人間は水の上を歩く事が出来ません。ですから、神様は私達に舟を下さいました。キリスト教会の美術の中で、教会が舟のように描かれています。舟のマスト・帆柱hobasiraが十字架の形です。教会全体がいつも祈ります、「主よ、助けて下さい」と。そして、イエス様は御自分の手に、そのカジを取って私達を導いて下さいます。聖霊はその帆を、信仰と聖書と礼典の息で満たされます。  

ですから、舟の中にいた弟子達と共に、イエス様を礼拝して言います、「本当に、あなたは神の子です」。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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