水からぶどう酒へ

2016年1月17日、顕現節第2主日―C



ヨハネによる福音書2:1-11 2:1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。2:2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。2:3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。2:4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」2:5 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
2:6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。2:7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。2:8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。2:9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
2:11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

先週水について話しました、今日ぶどう酒について話しましょう。先週はイエス様のバプテスマでした、今週はカナでの結婚式でイエス様は水をぶどう酒に変えました。教会の中で水の事を考えますと、自動的に洗礼の事を考えます、そしてぶどう酒について考えますと、聖餐式の事を考えます。先週洗礼について話しましたが、今週聖餐式について話します。しかし、それをする前に、カナでの結婚式のイエス様の行動を見ましょう。

与えられた福音書の日課の最後の一節、結論として、このように教えます:「2:11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」ヨハネによる福音書の中には、イエス様の素晴らしい行いが「奇跡」と呼ばれていないで、「しるし」と呼ばれています。何故ならば、その業は、イエス様について何かを教える、しるしや信号や啓示だからです。この業は、イエス様がどなたでるか、何であるか、どうして彼が救い主であるかを現すからです。カナでの出来事は、イエス様について多くの事を教えます。

先ず、イエス様は御自分の母と弟子達と共に、その結婚式に参加しました。結婚式の時、神様がこの新しい夫婦とその家族を、祝福して下さるのでお祝いします。イエス様は荒れ野の中に住む、バプテスマのヨハネのような者ではありません。イエス様は人々と共にいる為に、この地上に来られました。ですから彼が「神は我々と共におられる」という意味である「インマヌエル」と呼ばれます。私達が喜ぶ時にも悲しむ時にも、私達と共にいる為に来られました。イエス様がその結婚式に招待されたと同じように、私達はイエス様を私達の人生の出来事に来るように招待します。例えば、多くの人々が祈る食前の祈りの一つは、このように言います、「主イエス様よ、私達の食事のお客様として来て下さい。アーメン。」危ない時、主が来るように「主よ」と祈ります。 私達の洗礼式にも、結婚式にも、お葬式にも来られます。

次に、ぶどう酒が足りなくなった時、イエス様の母はイエス様の助けを頼みました。私達の人生のパーティのぶどう酒が足りなくなる時、イエス様の助けをお願いしましょう。と言うのは、私達の人生はいつもパーティや宴会のようではありません。問題がある時、もう喜びがありません。ぶどう酒がもう無いようです。お金が無くなる、運が無い、友達が去ってしまって、淋しい時、病気や痛みがある時、他の人の事を心配する時、自分の人生の事が恐い、自分の将来を恐がる時――人生のぶどう酒が無くなったようです。その時、イエス様の助けを頼みましょう。母マリアが召し使い達に言った言葉は、私達の為にも良いアドバイスです、即ち、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言ったのです。言い換えますと、「イエス様にまかせて下さい」と。心配しないで、全てをイエス様に信頼しなさいと。

この話しの次のしるしは、イエス様の力を教えます。美味しい、素晴らしいワインを600リットルぐらい造りました。イエス様が何かをする時、素晴らしくします。人を癒す時、彼らは良く見たり、聞いたり、話したり、歩いたり、復活したりする程です。荒れ野で5つのパンと2匹の魚を、裂いて5千人ほど食べさせます。私達の罪の為苦しむ時、御自分の上に世の罪を取ります。死ぬ時、完全に死んでほうむられています。甦る時、永遠に生きています。600リットルの美味しいぶどう酒は、イエス様の気前良い事、彼の憐れみ、親切や、私達に対する関心を表します。私達が良い生活が出来る事はイエス様の御心です。私達が苦しむ事はイエス様の御心ではありません。 しかし、これは罪深い、悪が多い世です。神様の憐れみと愛は福音ですので、私達の罪が赦されていますし、イエス様が私達と共にいます。その600リットルのぶどう酒は詩篇23篇の言葉を考えさせます。
私を苦しめる者を前にしても/あなたは私に食卓を整えてくださる。
私の頭に香油を注ぎ/私の杯を溢れさせてくださる。
命のある限り/恵みと慈しみはいつも私を追う。
主の家に私は帰り/生涯、そこにとどまるであろう。

完全にイエス様に信頼する詩篇です。

今日の話しの中の私の好きな言葉は、結婚式の世話役が花婿に話した言葉です。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」この言葉も、イエス様と福音について教えるしるしです。古いぶどう酒は悪い、新しいぶどう酒が良いです。福音は良い知らせです。以前、古いぶどう酒であるモーセの律法を、人々が飲んで酔っ払っていました。今は一番良い物を出す時期です。福音の時です。新しい人生の送り方です。罪の奴隷状態からの自由な人生です。救いの新しい命を祝う人生です。赦しです。愛です。神様の憐れみ、恵み、気前良い事です。イエス様は神様のしるしです、即ち、神様は良いぶどう酒を今まで取って置かれたのです。

先週洗礼の水が私達を救うのは、神様の御言葉の約束によると話しました。その御言葉は言います、「信じて洗礼を受ける者が救われている」と。それで、洗礼の水は罪を洗い落とす事で、新しい命に復活させるものです。今日の福音書の日課で、イエス様は水をぶどう酒に変えました。しかし、私達が話すべき事とは、聖餐式です。 なぜならば、この聖礼典で、イエス様はぶどう酒を彼の血の救いの力に換えます。イエス様がワインをご自分の血に変えると言う表現を使いたくありません。何故ならば、その聖餐式のコップに、そのチャリスの中には、確かにぶどうのワインがあるからです。古くから教会の中でそのように言う教えがあります。即ち、祭壇の上に、パンとぶどう酒がもう無く、ただパンとぶどう酒のように見える、キリストの体と血しかないと言います。反対にプロテスタントの宗教改革時代には、Zwingliツヴィングリのような人は、キリストの体と血が全然なくで、パンとぶどう酒だけがあると考えました。一つの有名な話ですが、マルチン・ルターとツヴィングリがMarburgマールブルグと言う町でこの話題で論じ合いました。ルターが強調したのは、イエス様がこれは御自分の体であると言われたので、その通り、彼の誠の体である事です。そして、その会議で、ルターはチョークでテブルの上にイエス様の言葉を書きました、「これは私の体である」と(“我ここに立つ”ローランド・ベイントン著p.409)イエス様は本当に、真に、このパンとぶどう酒と共に存在する事です。

しかし、どうしてこれが可能でしょうか。 水をワインにする奇跡を理解する事が出来ますか。目で見て、手で触って、口で味を感じるのは、パンとぶどう酒だけですので、どのようにして、私達の祭壇の上に、私達の手に、私達の口の中に、イエス様の体と血が存在する事が出来るでしょうか。私個人の理解と説明はこれです。

1. もし神様は神でしたら、全能の神でしたら、何でも出来ます。 2. 私達はイエス様の言葉を信頼します。 3. 地上に生まれた時、キリストが同時に神であり、人間でありました。それで、十字架上で神様が死んだと言えます。ですから、イエス様の犠牲には、世の罪を赦す力があります。 4. 聖霊はイエス様がバプテスマを受けた時、鳩の形でイエス様の上に下りました。又、ペンテコステの時、聖霊は激しい風や燃えている炎の形で来られました。 5. ですから、もし神様が、人間の形や鳩の形でさえも来られましたら、イエス様はパンやぶどう酒の形にも来る事が出来ます。ですからこの聖礼典が私達の罪を赦す事が出来ます。 6. この礼典でイエス様が本当におられるで、イエス様の新しい契約は、まだ私達にとって新しい物であり、再び私達と共に結ばれて、覚えられて信じられています。イエス様がご自分の約束を守って下さると分かります。

水をぶどう酒に変える事は、イエス様がどなたであるかを、教えるしるしでした。 聖礼典のぶどう酒に於いて来られるのは、キリストの愛と救いを現すしるしです。結婚式は嬉しいお祝いです、聖餐式もそうです。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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