荒れ野の中に歩いて

2017年12月10日、待降節第2主日


マルコ1:1-8、イザヤ40:1*11

クリスマスの準備をしましょう。キリストの到着の為に準備しましょう。キリストが来られるのは、クリスマスの時、世の最後に、そして、今日も私達の心と人生に来られます。キリストの到着の為に準備しましょう。預言者イザヤもバプテスマのヨハネも、この同じメッセージを述べ伝えました:「主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。《と。

イザヤは言いました、「主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。《歴史上の状態は、バビロニアに連れていかれたユダヤ人の捕囚(ほしゅう)が終わり、彼らはそろそろ約束の地に帰ります。とても長い旅になります。砂漠を通って行きます。それでイザヤは予言しました。その約束の地への旅に、神様が彼らと共に行って彼らを守り、旅路を楽にして下さいます。

40:3 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/
わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
40:4 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。
険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。

それで、綺麗な公園を歩く事のようになります。何故ならば、家に帰るからです!又、羊飼いのように、主は彼らと共に行くからです(11節)。

バプテスマのヨハネは、イザヤの言葉を借りて自分の働きに当たって用(もち)いたのです。ヨハネは荒れ野にいました。そこでユダヤ人の所に来られるメシアの来る道を備えました。イザヤは神様の赦しについて語りましたが、ヨハネは人々が自分の罪を悔い改めて洗礼を受けなさいと言いました。イザヤ書の場合には、神様がユダヤ人を赦して下さったので、バビロンでの捕囚から約束の地に帰る事が出来ます。ヨハネの場合には、罪を悔い改めて神様のもとに帰ったら、メシアは彼らを救いの道に導いて下さいます。そしてイエス様は本当に来られました。彼こそは、道であり、真理であり、命であります。彼こそは救いへのまっすぐな道です。

そして、今日、私達に語られているイザヤとヨハネの言葉を聞きます。今日、私達は悔い改めて福音を信じる時期です。私達の為に供えられた道を旅する時期です。

私達の人生の歩む道も、真っすぐではないでしょう。曲がったり、荒れ野の中で、凸凹で、谷も山もあります。人生は苦労と悲しみでいっぱいです:経済的、社会的、政治的、個人的、健康の状態、精神的、人間関係、教育の問題など。このようなチャレンジによって人生が面白くなるでしょうが、同時に、大きいな痛みや人生の目的に到達出来るかどうかの悩みや絶望もあるでしょう。

しかし、預言者イザヤとバプテスマのヨハネは、このような問題だけではなく、私達にある霊的な問題についても語ります。神様への道は真っすぐではないからです。実際に罪の為に、その道が大変曲がってきましたので、人は神様のもとに行く事が出来ません、何故ならば、聖霊の導きがなければ、その正しい道を見つけられません。それで、聖霊がいないと、多くの人々は神様の事をあきらめてしまいました。多くの人々は、自分が天国に行く事にさえ、もう関心をもっていません。そんなに人が罪の中に失われているからです。

洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。「悔い改めなさい《と言いました。聖書の中では、悔い改めとは、正しい道に戻る事です。罪の赦しとは、今、正しい方向に進んでいる事と意味します。しかし、バプテスマのヨハネが沢山 説教したり洗礼をほどこしたりしても、実は、自分の無力さを感じました。自分が救い主のメシアの降臨を述べ伝える事が出来ますが、自分の力で誰も救う事が出来ないと分かりました。バプテスマのヨハネは最も聖なる人で、自分の生き方で神様の御心に従いましたが、自分の聖さで別の人を救う事が出来ませんでした。このようにそれを表現しました:「私よりも優れた方が、後から来られる。私は、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。1:8 私は水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。《

靴とサンダルの履物は、歩く為の物です。しかし、イエス様が私達を救う為に来られた時、最初に靴のない赤ちゃんで、かいばおけに寝かされせて布に包まれていました。もし履物のひもを解く仕事が一番身分の低い奴隷の仕事でしたら、イエス様は御自分のけんそんを表して、弟子達の足を洗いました。それは、弟子達も、けんそんと愛と奉仕を持って、お互いに使い会う事を教えました。イエス様は靴をはかない時もありました。一回は、ある女の人がイエス様の足を涙でぬらして自分の髪の毛でそれを乾かす時がありました。もう一回とは、十字架上にいる時です。十字架につける為に、足に釘を打つ為に、その履物が抜がされました。足は歩く為です。キリストの場合には、自分の道は十字架への道でした。その道に至るのは、先ず、死と地獄でした。それから罪の赦しまで、復活まで、永遠の命まででした。

イザヤとヨハネは預言者でした。彼らは私達にも語ります。私達がその言葉を聞く時、神様が私達に、メシアの為に道を備えるように言われています。クリスマスはそろそろ来ますので、キリストの来臨の準備をします。私達も荒れ野の中で、主の道を作れば良いのでしょうか。文字通りに解釈したら、新しい伝道所を砂漠の中やジャングルの中か、無人島に作る事でしょうか。しかし考えますと、私達が今いる場所が荒れ野のようです。私達の家の経済的な事を意味しません。私達の社会全体の状態が荒れ野のようです。人々は霊的な暗闇を恐れを持って迷い出ています。涙と痛みと心配の為に、目も心も乾きます。ですから礼拝堂を建てる場所はここです。ここに必要があります。教会の建物だけではありません。私達の心の礼拝堂です。主が私達の心に来られる為に自分の心を準備したり、その救いの道を他の人にも教えます。メサイヤはここに来られます。これこそはクリスマスのストーリーです。キリストはこの罪深い荒れ野のような世界に生まれました。私達がいる所に来られました。ここで、私達と同じように苦しみました、いや、それ以上に、私達の罪の為に、苦しみを受けて十字架上で死にました。そして、3日目に甦られました。私達の復活と約束の地での、永遠の命を約束しました。このイエス様の預言こそはクリスマスに意味を与えます。クリスマスは約束の地への一歩目です。

イエス・キリストは「インマヌエル」と呼ばれています。「神が私達と共にいる」と意味します。クリスマスは、神様が私達と共にいると教えます。私達はその道を一人で旅しません。人生の道では、荒れ野を通る時があります:悲しみ、痛み、罪があります。しかし、淋しい荒れ野ではなくても良いです。私の人生の道がいき易くなるのは、問題の中にいる時、神様と共に旅をする時です。その時、祈って、神様が導いてくださるように、私と共にいるように祈ります。問題の山が低くなり、失敗と失望の谷が深くありません。

クリスマスに、預言者の言葉が成就されています。それをクリスマスにお祝いします。神様が私達と共に旅をします。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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