人生の意味とはキリスト信者として生きる事です

2022年7月31日


第1朗読 コヘレト1:2,12〜14;2:18〜23 (旧1034)
第2朗読 コロサイ3: 1〜11 (新371)
福音書   ルカ12:13〜21 (新131)

結論から始めましょう。人生の意味とは、キリスト者として活きる事です。

今日の福音書の中で、ルカ12:16で、イエス様は例え話を言われました。

「ある金持ちの畑が豊作だった。 17金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、 18やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、 19こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』 20しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。 21自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

私の目に入って来る言葉は20節です、「しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。』」今年の1月12日、私には心臓麻痺がありました。ERで息を失って、9時間後、バイパス手術の後にICUで目が覚めました。実は、最初の思いは、「オー、生きています。それでしたら、神様には、私が生き続けている意味があるのでしょう」と。その時から、私がする神様の意思は何でしょうか思います。一番良いアドバイスは、コヘレト2:24でしょう。「人間にとって最も良いのは、飲み食いし、自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、私の見たところでは、神の手からいただくもの。」

看護婦は、「食べ物に気をつけなさい」と言いました。砂糖、塩、油ぽい物を取りすぎないように注意しました。しかし、食べられる物を楽しく食べます。その上に妻は料理上手です。又、医者はコーヒーを飲んでも良いと言った時嬉しかったです。コヘレトの書いた人が「自分の労苦によって魂を満足させること」と言いました。私の「苦労」とは、沖縄ルーテル教会の牧師の働きです。勿論、この教会には大きなイライラさせる問題がありますが、私の魂を満足させる、喜びを与えるのは、聖書のクラスを教える時や神の御言葉を説教する時です。ですから、今のところでは、自分の人生の目的とは、沖縄ルーテル教会の働きを続けて、妻を愛し続ける事だと思います。そのようにして、本当に、「ひと休みして、食べたり飲んだりして楽し」む事が出来ます。安心するのは、自分の救いの富が天国にあると分からからです。

聖パウロによりますと、この世俗的な世が楽しいと考えている事は神様の意思ではありません。今日の第2聖書日課、コロサイ3:1−11で、使徒パウロによりますと、洗礼を受けたキリスト者には、新しい考え方と新しい生き方があります。又、その新しい生き方の反対も教えます。

第2朗読  コロサイ3: 1〜11 (新371)

3:1 さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。 2上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。 3あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 4あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。

5だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。 6これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。 7あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。 8今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。 9互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、 10造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。 11そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。

その罪を赦す為にキリストは死にました。新しい命とその新しい生き方を与える為に復活しました。10節が言います、「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け」ます。新しい洋服を身につける事のようです。新しい制服、ユニフォームを身に着けて、「造り主の姿に倣う」イメージです。神の姿に活きるのは、堕落した前のアダムとイブのようです。それが出来るのはキリストの赦しと精霊の贈り物によって生きる事です。人生のすべての為に、イエス様を信じて信頼する事です。

自分の富を主に預けない事が、コヘレトにこのように表現されています、「なんという空しさ。なんという空しさ、すべては空しい。」全ては空です。全ては価値がない、意味がない、もったいないです。たまに、私は、自分の人生を無駄に生きて来たでしょうかと思います。人生には意味があるでしょうかと思います。この気分によって、ある人は失望して、自殺して、乱暴な行いになります。しかし、聖霊が私に信仰の贈り物を与えて下さった時、もう一つの贈り物も下さいました、即ち、頑固さと楽観的な性格です。ですから、この働きを続けています。諦めません。自分が知っているのは、全てが空しくありません。命は大切です。宝です。どんなに大切かと言いますと、私の為にキリストが死んで復活したほどです。それは、私は洗礼によって死んで、キリストの為に生きる為です。

それで、私の結論とは、人生の意味とは、キリスト者として活きる事です。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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