倒れた塔

2010 37

ルカ13:1−5

13:1 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。2 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。3 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。4 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。5 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

地震。津波。殺人。暴力。不正義。事故。天災。人間が起こす悲劇。

どうして災害があるかと人々は思います。天気予報の人は、台風を起こす低気圧について説明します。大学の教授は、どうして遠く離れている地域の地震が広い海を渡って津波を送る事が出来るか説明します。心理学の専門家は、どうしてある人が狂って来て、多くの人を惨殺(ざんさつ)するか説明します。ある説教者は、天災はその災害でころされた人に対する神の罰であると説明します。

イエス様の時代にエルサレムで、ある塔が倒れて18人の人が死にました。警察暴力のように、ピラトはエルサレムに上って来たガリラヤ人の巡礼者を殺しました。ある人はその悲劇は悪人に対する神様の罰だと思いました。しかし、イエス様はその事を否定します。イエス様は言われました、「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

言い換えますと、罪人でない人はいません。もしその災害が罪の罰ならば、エルサレムの町の全ての人が死ぬべきです。もし天災は天国からの災害ならば、地球にいる全ての人が滅びます。言い換えますと、どうして日曜日の朝(2010/2/28)にチリにマグニチュウド8.8度の地震があったかと聞かないで下さい。その代わりに、どうして土曜日の朝(2010/2/27)に沖縄での地震がたったのマグニチュウド .9度の地震で、災害が殆ど無くすんだのはなぜかと、聞いたほうがいいです。(M.8.8M.6.9より千倍強いです。)どうしてチリの人々が苦しんでいるかと問わないで、どうして私達が苦しんでいないかと問います。そのチリの人が沖縄の私達より罪深い人間ではありません。

津波の警告を聞くと、ノアの時代の大洪水の事を思い起こします。その時、神様は全世界の罪を滅ぼすために、全世界の罪人が滅ぶようにしました。しかし、神様の愛と哀れみをも見る事ができます。ノアの箱舟のなかに神様は8人の人を救いました。そして大洪水の後に、青空に虹を起きました。それは再び罪の為に、全世界を大洪水で滅ぼさないとの神様の約束です。しかし津波の警告のように、イエス様は私達に警告を与えます。「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」イエス様は、落ちる塔について警告しないで、地獄に落ちる事について警告します。

人が神様を信じると言うとき、その人が災いに逢わないということを意味しません。イエス様を自分の救い主として信じて受け入れても、自動的に、あなたの人生が幸せで、長くて、金持ちになると意味しません。多くの事を苦しんでいる多くのキリスト信者がいることをしっています。その人が何かの大きな罪を犯した訳ではありません。信仰が弱い訳でもありませんでした。クリスチャン・ホームでさえも、離婚と死と病気などで悩まされています。その人の罪のせいではありません。神様はその人に罰を与えているわけではありません。

神様は彼らに罰を与えない事とは、イエス様はもう既に、御自分の上にその罪の罰を受け取ったのです。御自分の上に世の罪を取って、暴力と不正義に苦しんで、私達の変わりに死にました。イエス様が死んだ時、地震がありました。その地震による神様の津波は洗礼の水となって、私達に水をかけて私達を清い者にします。

イエス様は言われました。「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」悔い改めとは、反省(はんせい)です。自分の信仰について考えて、キリストによる神様の愛について考える事です。この悔い改めと反省の時、聖霊の導きによって分かるのは、神様の約束がどんな災害でも強い事です。又、詩篇23篇の言葉を黙想(もくそう)します。「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。…. たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。」私達が被害者でしても、神様が私達と共にいます。たとい地震があって、私達が崩(くず)れた建物の下でつぶされて殺されても、神様が私達と共にいます。何があっても神様が私達と共にいます。私達が生まれた時にも私達と共にいます。人生の良い時も悪い時も、私達と共にいます。そして、私達が死ぬ時にもイエス様が私達と共にいます。ですから私達は滅びません。私達はイエス様の永遠の愛の中に生きるからです。

アーメン。

マイケル・ニアフッド牧師
沖縄ルーテル教会


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