三位一体の神様の証しをする三人

2015年5月31日、三位一体主日



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第1朗読 イザヤ6: 1〜 8(旧1069)
6:1 ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。
6:2 上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。
6:3 彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」
6:4 この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。
6:5 わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」
6:6 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。
6:7 彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」
6:8 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」

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神様が三位一体であるのは神秘です。しかし時々、神様はご自分を人間に現して下さいました。今日、父と子と聖霊なる三位一体の神を見て、その証人になる三人の人を見ましょう。先ず、父なる神様です。

旧約聖書には、燃える芝で神様と出会ったモーセがいますが、今日の旧約聖書の日課は預言者イザヤが見た幻の話ですので、その箇所を見ましょう。イザヤ6:1-8.

「ウジヤ王が死んだ年のことである」と。そのときエルサレムには、大きな政治の不安がありました。北国のイスラエルやシリアとの戦争がありました。ウジヤの後、彼の孫アハズが王になりましたが、不安が続きました。そのような時、神様はイザヤに、幻と使命を与えました。ヴィションとミッションを与えました。その幻は、勿論シンボルのようなものですが、神様の性質について教えます。王様のように見えますが、ウジヤのような地上の王よりはるかに優れています。主なる神様は、高く天にある御座に座していました。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。この事は神様の力と威光を教えます。

モーセとイスラエルの民が荒れ野にいた時、民数記21:6でこのように書かれています、「主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。」ここに使った“炎の蛇”と言うヘブライ語の言葉は“サラフィム”です。“サラフ”とは、“燃える”と意味します。イザヤ6章では、そのサラフィムは、神様の家来で、ボディガードのようです。又、神様が現れる時にそれを告げるものでしょうか。〔昔の日本で、将軍が部屋に入る前に、家来が「おなり」と大声で言った事に似ているでしょうか。〕セラフィムはどのような物でしょうか。飛ぶ蛇でしょうか。手と足があるドラゴンのようでしょうか。ぞれぞれ六つの翼を持ちます。二つで御座の上で飛んで、二つで顔を覆うのは、直接に神様の栄光を見えないように、そして、二つで体を覆うのは、神様の御前でのけんそんを表します。

そして、雷ほどの大きなこえで呼び交わし、唱えたのです。

「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」

3回「聖なる」と言うので、私達クリスチャンはそれが聖なる三位一体の神であると言いたいと思うでしょうが、多分3回言いますのは、神様がとっても、とっても、とっても聖なるものであるからでしょう。又、現代の日本人が誰かにおめでたい事を言う時、「万歳」と3回言う事のようでしょうか。とにかく、その雷のような声が、大きい太鼓のように、神殿の建物全体は揺り動かされました。イザヤによりますと、「神殿は煙に満たされた」のです。その煙は神殿の祭壇からでしょうか、それとも、もしそのセラフィムが燃えている蛇のような、ドラゴンのようでしたら、その口から出る息は神殿を満たす煙でしょう。

それを見たイザヤは恐がりました。言いました、「災いだ。私は滅ぼされる。私は汚れた唇の者。」彼の目が聖なる王様、天の主を見たので、イザヤは自分の罪深さを知ります。

神様を見る時、それは正しい反応です。私達もその同じ恐れが分かります。それは自分の罪を考える時です。けんそんを持って、私達は神様の聖なる清い性質を知ります。十字架上のキリストを見る時、すべてのクリスチャンが、罪の重さを感じます。恥を持って、自分の目と体を覆う翼があれば、神様のものすごい、恐ろしい栄光から飛びさって逃げる事が出来ます。イザヤと共に言えます、「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」しかし逃げる所がありません。私達の全世界が汚れています。唇を初め、思いも心も行いもそうです。

そしてその時、私達は神様の憐れみと愛を見ます。「6:6 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。6:7 彼はわたしの口に火を触れさせて言った。『見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。』」私達も神様の愛と憐れみを見ました。それは聖霊の火であり、洗礼の水であり、聖餐式のパンであります。私達の咎を去らせ、キリストの犠牲によって私達の罪が赦されました。

イザヤの人生が変わりました。赦されて、祝福されて、清くされた唇で、イザヤは神様の御言葉を述べ伝えます。裁きと警告と希望の言葉です。イザヤは答えました、「私がここにおります。私を遣わしてください。」私達の心が祝福されて、清くされる時、私達がもう神様の裁きを恐れないので、現代の世界の預言者になりたいと思います。「私がここにおります。私を遣わしてください。」と言います。

三位一体の神様の第二人格(神格)とはイエス・キリストです。福音書の中で、多くの人々はイエス様と出会いましたが、イエス様が神様であると分かる人の話しが少ないです。例えば、変貌の山のペテロ、ヨハネとヤコブです。十字架上でのイエス様の死に方を見て「本当に、この人は神の子だった」と言った百人隊長です(マタイ27:54)。又、復活の一週間後「私の主、私の神よ」と行ったトマスです(ヨハネ20:28)。トマスについて話しましょう。トマスは幻や夢を見ませんでした。イエス・キリスト、神の子、肉体を持って三位一体の第二の人格を見ました。セラフによるではなくて、直接にイエス様によって語られた福音を聞きました。キリストの栄光を見ないで、かえって、キリストの苦しみと痛みと恥を見ました。イエス様はトマスに言われました、(ヨハネ20:27)、「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」この言葉によってイエス様はトマスの疑いを赦しました。又、その言葉によって、信仰の使命をも与えました。それでトマスは信仰を告白しました、「私の主、私の神よ」と。面白いと思いますが、弟子達と会う時、復活したイエス様は罪を赦す権威を与えました。 (ヨハネ20:22-23)、「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」預言者イザヤの場合、セラフは彼の唇を燃える炭火で触れて罪を赦した後に、彼がエルサレムの人々に御言葉を述べ伝える事が出来たように、今度、弟子達の罪が赦されたので、彼らも、エルサレムから始め、全世界の人々に罪の赦しを述べ伝える事が出来ます。

この祝福が私達の所にも来ます。時々、私達はトマスのように疑いがあります。時々、私達に弟子達と同じ恐れがあります。時々、自分の罪がイエス様の死の理由だったと悟satoります。時々、神様の御前に、イサヤと同じように言います、「災いだ。わたしは滅ぼされる」と。その時分かるのは、私達が神様の御言葉に触れた事です。洗礼によって私達の罪が赦されている事です。赦しは安心です。平和です。命です。

そして最後に、三位一体の神様の第三の人格(神格)である聖霊です。

ペンテコステの日に、多くの人々は聖霊と出会いました。激しい風と炎のように来られて、弟子達に、多くの外国語で話す力を与えました。皆は聖霊の証し人ですが、その日にエルサレムにいなかった人を選びたいと思います。聖パウロです。(使徒9章)。パウロは教会を迫害しました。キリスト信者を逮捕する為にダマスコに行きました。しかし、その途中の道路で、視力を失う程の、まぶしい光の幻の中でイエス様と出会いました。恐れで地に倒れて、イエス様の声を聞きました。(9:3)「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と。後で、イエス様を信じて、目が見えるようになって、聖霊を受けて、洗礼を受けました。その幻の時、パウロは、イザヤとトマスと同じように、使命を受けました。それで旅立ち、赦しと救いの福音を述べ伝えました。イザヤはエルサレムの人々に、勇気を与える為にその預言を書き残しました。同じように聖パウロの手紙はその時の信者達にも、今の信者達にも勇気を与えます。それで、最後に、今日の使徒書の言葉で終わりたいと思います。この御言葉によって聖霊はローマにあった教会に語りましたが、私達にも語ります。私達にもそれを聞く必要があるからです。

第2朗読  ローマ8 :14〜17(新284)

8:14 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。8:15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。8:16 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。8:17 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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